佐渡市赤泊は佐渡ヶ島南部に位置し、約40km隔てて寺泊と相対している。 江戸期を通じて幕府領。赤泊村の村高は元禄7年(1694)検地帳396石余、「天保郷帳」413石余。 元禄7年検地帳では田15町余・243石余、畑19町余・153石余。 「巡村記」では天保12年(1841)の家数176・人数847、村高413石余、田16町余・畑21町余。 赤泊は水深が浅いため大型入らず、越後への小船の往来が中心であった。天保9年(1838)の村書上帳では廻船4艘・漁船17艘・糀屋2軒・酒造屋2軒・濁酒屋1軒、大工・指物師各4軒、木挽・塗師・桶屋・髪結各1軒、板木商9人・四十物師7人・魚行商人10人がいた。 文政10年(1827)には旅客運搬専用の押渡船(押切船)が通じ、明治初期まで越後佐渡往来の便として栄え、また佐渡牛の積出港としても栄え、松前との取引が当村の廻船業者の主たる業務であった。 明治34年の家数185・人数825。明治43年の赤泊港の出入船舶数は汽船303・帆船13・和船631。背後地の山越えの交通路の整備が遅れて物資の集散地にならず、赤泊港は衰退し、昭和10年に赤泊〜寺泊間の定期航路は廃止されてしまった。 今、町並は漁業の町・商業の町と思われる光景が展開していた。赤泊の古い町並は、明治に入り松前との交易で大成功した、港近くの田辺九郎平の旧宅辺りに展開している。明治30年に建てられた北海道の鰊御殿と同様な望楼をもつ洋風建築で、周りの町並を圧倒している。そんな町並で特異と感じたのは旅館の建物が多くあり、寺泊〜赤泊航路での旅人が多かった証と思った。そう云えば正徳期(1711〜16)頃には佐渡奉行の来島は、寺泊から赤泊という越後からの最短距離の航路が利用されていたこともあったようだ。 角川日本地名大事典 角川書店 角川日本地名大事典編纂委員会 1989年 新潟県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1986年 新潟県の歴史散歩 山川出版社 新潟県の歴史散歩編集委員会 1996 |
赤泊の町並 |
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