佐渡市相川二町目の町並
相川二町目・相川三町目・相川四町目・相川江戸沢町
地図


相川二町目の町並

 相川二町目・三丁目は佐渡ヶ島の西部、海岸沿いに位置する。
相川は江戸期〜明治22年の総称の町名で、羽田村・下相川村・下戸村内に成立した町々の総称で、文禄4年(1595)坑道堀技術の採用により鉱山町として発展した。
徳川家康による銀山開発が始まり、慶長8年(1603)に陣屋が置かれ、その後銀山の開発は本格化し、大久保長安によって町づくりが進められた。海岸沿いに南北約2kmの区域を下町、その台地上、陣屋(奉行所)の周辺区域を上町と呼んで、慶長〜寛永年間(1596〜1644)初頭の約30年間に鉱山町として形成されていった。陣屋は北沢と南沢の間、海岸に面した出崎に置かれ、陣屋の麓から鉱山入口の相の山番所に至る往還道の両側に町割りを行った。町並の完成は寛永年間(1624〜44)という。陣屋の総囲敷地は3,313坪で、元和3年(1617)から佐渡奉行所となった。
家数は、初期の記録は正確さを欠くが、最盛期の人数は35,000人ないし40,000人と想定されている。「相川町誌」によると、天和元年(1681)の町数81、家数1,641・人数8,238とし、元禄7年(1694)には家数3,086・人数12,449人とある。
慶長〜元和年間(1596〜1624)頃が鉱山町としての最盛期で、以後衰退が著しかった。宝暦7年(1757)奉行石谷清昌意見書によると、町数70余、家数1,500余。鉱山開発の盛んであった頃は「上手千軒」と称されるほど上相川は繁栄したが、当時は畑と空地が多く、ただ寺院のみが残るとある。他方、「下手」と称された浜辺の町は家居こそ密集しているが、当時はすべて困窮を呈していたという。明治6年の人数12,553人とある。
さて、今回訪ねた相川二町目・相川三町目・相川四町目は相川一町目の繁華街に続く商業地・住宅地で、南北に通じる町道の両側に板囲いの家屋が連なる。通りは落ち着いた佇まいで、2階部分が表に張り出した出桁造りの家屋も混じる。かっては千本格子だっただろうが今では全てガラス戸になっていた。
町並み指数 50
参考文献  
  角川日本地名大事典  角川書店  角川日本地名大事典編纂委員会  1989年
  新潟県の地名   平凡社   (有)平凡社地方資料センター   1986年
  新潟県の歴史散歩  山川出版社  新潟県の歴史散歩編集委員会    1996年   



相川江戸沢町

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