大月市駒橋は山梨県東部、桂川右岸の低河岸段丘上に位置する。 江戸期のはじめ駒橋村は谷村藩領、宝永元年(1704)からは幕府領で幕末を迎える。当村内は上駒橋・下駒橋に分かれ、下駒橋は甲州街道駒橋宿を形成していた。 村高は「慶長古高帳」423石余、「寛文九年甲斐国郡内領高辻帳」「享保郷領」ともに328石余、「天保郷帳」330石余、「旧高旧領」328石余。 文化初年(1804頃)の家数90・人数366。天保3年(1832)の家数95・人数399とある。 桂川の河岸段丘にあって水利に恵まれた地であって、山間地にしては珍しく畑より田方の村であった。 下駒橋には駒橋宿が置かれ、甲州道中宿村大概帳によると、宿内の町並は東西10町54間で、本陣・脇本陣はなく、旅籠屋も4軒(中2・小2)のみであった。宿内家数85・人数267。宿の両側には家並が続くがその他は田畑であった。農業は五穀の他に野菜などを作り、農間には往還稼ぎ・山稼ぎを行い、養蚕や機業が盛んで絹や紬を織った。旅籠屋の他に食物を商う茶店やその他の諸商人もいた。 次の宿場の大月宿までの間には集落が無く、並木や一里塚、立場も無かった。明治35年国鉄中央線大月駅が開設され、大月が駅前集落として発展したが、駒橋は発展から取り残されてしまった。 大月駅前を中心に発展する中で、取り残された格好になった駒橋宿辺りが今に残り古い宿場町の名残を残している。一部国道20号線として開発されたが、古い伝統的な様式の家屋が点在する町並である。 連続した古い町並とは言えないまでも、街道に面して建つ平入の家屋は、宿場町の当時の状況を今に伝えているようだった。 一番下の写真2枚は、駒橋宿の次の大月宿の次の花咲宿の本陣辺りの光景。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和59 山梨県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1995年 |
駒橋2丁目の町並 |
駒橋2丁目の町並 |
駒橋2丁目の町並 |
駒橋2丁目の町並 |
駒橋2丁目の町並 |
駒橋2丁目の町並 |
駒橋2丁目の町並 |
駒橋2丁目の町並 |
大月町花咲の花咲本陣 |
大月町花咲の町並 |