野尻宿が記録の上に現れるて来るのは、文禄2年(1593)のことである。慶長6年(1601)中山道の宿駅として指定されるとともに、問屋・本陣・脇本陣などが設けられ、宿駅経済によって発達した宿場町である。 江戸時代ははじめ幕府領、元和元年(1615)からは尾張藩領。家数・人数は、延宝2年(1674)1,227人、享保12年(1727)153軒・1,230人、宝暦3年(1753)156軒・872人、万延元年(1860)185軒・1,088人で、天保14年(1843)の中山道宿村大概帳によると、宿内町並東西六町3尺、家数108軒・人数986人。本陣1・脇本陣1、問屋2・旅籠19(大2・中10・小7)とある。 元禄5年(1692)の「高木伊勢守様御通ニ付福島へ宿々ヨリ書上写」によると、野尻宿は町長さ三町29間とあるから、150年ほどの間に町の長さが2倍になっており、宿の繁栄ぶりが伺える。本陣は森家が問屋を兼て勤めており、脇本陣は本陣向かい側に木戸家が問屋・庄屋と共に勤めていた。両建物は明治27年の火災で焼失し、遺構は残っていない。 この地は米の収穫が少なく、蕎麦・栗・稗といったものが主食であって、天保9年()の緒生産額の2/3は街道流通での稼ぎであり、この地の産物は繭・真綿・楮・櫛竹・串柿などであった。 町並は平入りの中2階建て又は2階建てで切り妻造りの古い伝統的な様式の家屋が多かった。宿場内は大きく曲がった所や自然に蛇行したように曲がった所が多く、七曲がりといわれている。 角川日本地名大辞典 角川書店角川 日本地名大辞典編纂委員会 1990年 長野県の地名 平凡社 下中邦彦 1979年 |
野尻の町並 |
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