須原は町中に多くの水舟を持つ中山道の宿場町である。 須原は中世木曽谷における政治の中心であって、木曽川左岸に典型的な山城の愛宕山城跡がある。この愛宕山の麓の定勝寺は、木曽義在の居館跡と云われ、愛宕山城は詰め城であったと推定されている。しかし、中世後半の木曽谷を支配した藤原姓を持つ一族の木曽氏は、戦国期に居館と共に政治の中心を須原から北部にある福島へと移した。 江戸時代に入り、須原は幕府領となり、元和元年(1615)から尾張藩領となった。文録2年(1593)にはすでに宿駅機能があったようであるが、正式には徳川家康によって慶長7年(1602)に制定されている。 須原村の家数と人数は、享保12年(1727)では111軒・626人。宝暦3年(1753)では143軒・689人。 はじめ宿駅は、木曽川べりにあったが、正徳5年(1715)の大洪水により、殆どが流失したので、高台の富岡へ移転をはじめ享保2年(1717)に完了した。 移転後の宿の長さは4町35間となった。天保14年(1843)の中山道宿村大概帳によると家数104軒・人数748人。本陣1、脇本陣1、旅篭屋24、問屋2で、宿は上町・本町・中町・茶屋町・四軒町から成っていた。慶応2年(1866)の大火で半数近くが焼失し、現在の町並みは明治初年に復興したものである。 本陣は問屋・庄屋とともに木村家が勤め、脇本陣は問屋・庄屋も兼ねて西尾家が勤めていた。 宿の南に定勝寺がある。木曽三大寺の一つに数えられる名刹である。永享2年(1430)木曽親豊が木曽川畔に創建したと伝えられるが、その後の洪水により度々流出した。現在の建物は、慶長3年(1598)豊臣秀吉の木曽代官であった石川備前守光吉が、木曽義在の居館跡(愛宕山城)に再興したものである。 五間幅の広い街道が宿場をとおり、道にそって用水が勢いよく流れ、出桁造り、格子の民家が連なる。山と木曽川に挟まれた狭い土地の道にしては広く取ったものだ。 宿の両端に枡形を配し、宿中央部で「く」の字型に歪曲させて、遠見遮断を図っている。北の枡形はハンギョウの上りの坂で、南の枡形はカギヤの下りの坂である。 町中には裏山の沢の水を引いた、水のみ場の水舟が七ヶ所もあって、今でも健在である。大きな丸太を刳り抜いて造った舟型だが、こちらは水に浮かべるのでなく、中に水をためておくのである。もっとも今では沢の水でなく井戸水のようで、絶えず流れ出ていた。 街道筋には小さな社がとことどころにあり、旅人の道中安全、宿の防火を願ってのものだろう。 天保9年(1838)の「木曽巡行記」では近くの宿場より谷深く、田畑も少なく、宿立悪く、貧民が多いと記載されていて、宿場稼ぎのほかには、山稼ぎや養蚕程度で特色ある産業はなかった。名物には「花漬」がある。 国道がバイパスを通ったため、昔の町並がそっくり残り、落ちついた佇まいを見せている。 長野県の歴史散歩 山川出版社 長野県高等学校歴史研究会 1996年 木曽 信濃教育会出版部 木曽教育会郷土館部 平成8年 中山道歴史散歩 有峰書店新社 斎藤利夫 1997年 古道紀行木曽路 保育社 小山 和 平成3年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 1990年 |