大平集落は長野県南部 飯田市と南木曾町との境界近くの山間の集落であったが、昭和45年に200年以上続いた集落を捨てて集団移住し、その村の歴史を閉じたのだった。 天龍川の流れる伊那谷と、中山道の通る木曽谷が並行している。この二つの谷の間には中央アルプスの山々が連なっているので、伊那谷と中山道を結ぶ道は極端に少なく、伊那谷南部の飯田市と中山道の南木曽妻籠を結ぶ大平街道は、唯一ともいえる峠越えの道だ。 この街道の開通は江戸時代中期の宝暦年間(1751〜64)のことである。飯田藩と地元の商人山田屋新七の手によってであった。表向きの目的は山林開発のためとのことだが、実際は中山道を通る参勤交代の荷物運搬の人夫に伊那の農民を動員するための最短ルートを開くためであった。 その後大平は飯田と木曽を結ぶ大平街道の峠の宿場として発展した。幕末の戸数は37軒、旅篭2軒であった。明治38年にはこの街道が車両通行可能になり、伊那谷と木曽谷を走る二本の鉄道を結ぶ主要街道として全盛期を迎える。 明治末から大正期の大平は、林業・養蚕の最盛期とも重なり、宿場としての集落は繁栄の時代を迎え、暮らしは豊かになり、立派な構えの家も現れてきた。養蚕と豊かな林産資源で炭を焼き、標高1100mの高所に戸数75戸もの大平集落が形成された。 しかし大平の生業の中心は炭焼きで、昭和30年頃までは値もよく豊かな生活ができたが、石油エネルギー取って代られ生活の糧を失ってしまった。過疎集落になっていく大平はついに昭和45年に200年以上続いた集落を捨てて集団移住をしてしまったのである。 今この集落は僅か20数戸だが、宿場時代の姿が良く残っている。宿の建物の建築年代は江戸末期から明治期に建てられたものが殆どである。切り妻造りで、平入りの場合も妻入りの場合も、街道に面した側は出桁造り(せがい造り)になっていた。この出桁造りは中山道の木曽路から北国街道沿いなど、長野県を中心にして分布しているようだ。殆どが平屋建で中二階建もあるが、中二階は天井の低い物置として利用していたようだ。平入りと妻入りが入り混じり、屋根はかって全戸板葺石置きであったが、今は殆どその上にトタンを被せていたが、2・3戸は板葺石置きのままであった。 間取りは前土間型で道路に面して土間があり、道路に対しても、家内部に対しても広く開放されている。土間に接する床上部分が板張りになっていて、大きな「いろり」が切ってある。 今、残っている民家は宿場時代の旅篭から養蚕、林業、炭焼きで活気のあったときに建てられたもので大型の家屋が多く、山間のひなびた宿場にしては立派な構えで場違い的な建物が多い。 今、民間のボランテァ「大平をのこす会」の管理によって運営されている宿場だが、保存・復元には多額の費用がかかる。まして日常の町並みの除草、清掃だけを見ても大変なことがわかる。一人一泊2000円と協力金300円を徴収されているが、それで運営できるのか心配しながらこの集落を後にした。 長野県の歴史散歩 山川出版社 長野県高等学校歴史研究会 1996年 町並み・家並み事典 東京堂出版 吉田桂二 平成9年 角川日本地名大事典 角川書店 角川日本地名大事典編纂委員会 大平宿 日本ナショナルトラスト 吉田桂二他 昭和57年 大平宿パンフレット 飯田市役所商業観光課 |