小野宿の町並み  
辰野町小野・塩尻市北小野大出
地図


小野宿の小野家前の町並み

  長野県の辰野町は長野県のほぼ中央にある塩尻市の南に位置し、塩尻を起点に南に向う三州街道が伊那谷に入って最初の宿場で、この街道中最も昔の面影を残している。
小野の地は伊那郡、筑魔郡、諏訪郡の接点で、中世末よりその帰属について常に紛争が絶えなかった。豊臣秀吉の支配下となり、領主は伊那郡は飯田の毛利秀頼、筑摩郡は松本の石川数正となったが、小野の地の帰属については依然紛争が続いていた。そこで秀吉は天正19年(1591)小野盆地の中央部での分割の裁定を下し、北方(北小野)を松本の石川氏所領に、南方(南小野)を飯田の毛利氏所領とした。それ以後現在までこの状況は続いているのである。
慶長5年(1600)関ヶ原の合戦後、信濃一円は徳川家康の支配下に置かれた。そして翌年の慶長6年(1601)に、大久保十兵衛長安により、下諏訪―三沢―楡沢―小野―牛首峠―木曽桜沢を結ぶ初期中山道が開設され、小野宿に町割りも敷かれた。
長安の死後、元和2年(1616)に、この中山道が廃止されるまでの13年間、小野の地は米・木材などの輸送で一時期大変繁栄したが、新たに下諏訪から塩尻峠を越えて塩尻、洗場、本山の三宿を通る中山道が設定され、小野宿は塩尻宿から飯田方面に通じる伊那街道最初の宿として残った。
現在の町並みは安政6年(1859)の大火後に再建されたものである。小野は前述のように、人為的に大沢川一筋で一線を画して松本領の北小野村と飯田藩の南小野村に分轄され、更に南小野は江戸時代を通じて幕府領(天領)としての支配を受けた。そして南北の境界線は明治になっても消えることなく今日に至っている。
この地区では今でも、南北両小野が一つの小学校、一つの中学校に通学している。小学校は南の辰野町小野に、中学校は塩尻市北小野大出にあって、両小野(辰野町・塩尻市)の生徒が互いに机を並べて勉強している変わった地区である。
この小野宿においても、宿の中程で領地が分断されているが、合宿(南・北小野宿)として機能していた。北小野と南小野双方に問屋を置き、扱い荷物を二つ割にした合宿の形であった。伊那街道には本陣や脇本陣はなく、必要があったときは問屋や名主の家があたった。
延享2年(1745)小野での家数は171軒・人数995人であって、又、北小野については文化4年(1802)家数180・人数795人。安政7年(1860)には家数225・人数1073人であった。
元録元年(1688)と安政6年(1859)に大火にあい、現在残されている町並みはそれ以後再建されたもので、今も本棟造りの民家3軒を中心に平入り造りの民家が並ぶ景観は見事である。
宿の中ほどに小野宿問屋 旧小野家住宅(町文化財)がある。この宿の問屋と名主役を勤めた小野家の建物で、安政6年(1859)の大火後に再建されたものである。旧小野家住宅は間口10間半、奥行き8間半という大規模な本棟造りの建物。切り妻造り、妻入りの民家で正面に胴差と妻梁という二段の太い横架材を見せている重厚な建造物である。棟の上には「すずめおどり」とその下には立派な縣魚も付けられていた。
町並み指数 60
参考文献
   長野県の歴史散歩  山川出版社  長野県高等学校歴史研究会  1996年
   辰野町史  辰野町  辰野町史編纂委員会
   塩尻市史  塩尻市  塩尻市史編纂委員会
   角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会

           

町並み

元小野宿問屋

本棟造りの民家

本棟造りの民家

町並み

町並み
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