新潟市中央区上大川前通や本町通は、信濃川河口左岸に沿って南北に連なる通りである。 新潟町は北國浜街道の宿場町、新潟湊を中心に発展した港町で新潟浜村とも称した。 元和2年(1616)長岡藩領、天保14年(1843)からは幕府領。新潟町の村高は「正保国絵図」608石余、「元禄郷帳」「天保郷帳」共に新潟浜村と見え608石余。 慶長15年(1610)松平忠輝(徳川家康の六男)が越後を領し、新潟町の統治に当たったが、元和2年(1616)改易となり、同年堀直竒が蔵王領主となり新潟町も統治した。堀直竒の新潟町統治は、元和4年(1618)村上移封までの2年間に過ぎなかったが、その施策は近世新潟町の基本的骨格を形成し、その後の新潟町発展の基盤を作り上げた。 堀直竒は新潟町を港町として発展させる施策をとり、元和3年(1617)には本格的な町つくりを開始した。これまであった本町(古町)のほかにも町割りを行い、新町(元本町通)・かた町(現東堀通)・材木町(現上大川前通)・洲崎町(現古町通、本町通、大川前通の上手)などを新たに設けた。 こうした町を単位として取り扱う商品を指定し、他町では扱わせない制度(町座制)をとった。 本町は絹・布・小物・紙などの商品を扱い、新町は穀物・海産物など、材木町には材木の取り扱いをさせて、各町の競合を避けて、それぞれの町の発展を図った。 新潟町の江戸期の人口は明暦2年(1656)5,000人、元禄年間(1688〜1704)7,000人余であった。 寛文12年(1672)の西廻航路の開発により、新潟港はいっそう発展し、元禄年間(1688〜1704)前後の50年間ほどは近世新潟港の黄金時代であった。 さて、今回訪ねた上大川前通は元和3年(1617)堀直竒の政策によって新たに開発された町で、当初は材木町と呼ばれている。船着場に近い当町周辺には大問屋が居住し、享保(1716〜36)以前には48軒もあった。下一ノ町(現4番町)碇屋小路以北から現12番町までの、表通りにある店を「他門店」といい、他国から船舶で運び込まれる材木を扱い、食塩卸売はその特権であった。元禄(1688〜1704)頃には木材・石材・石炭・荒物・四十物なども特権としていた。上一ノ町(現1番〜2番町)から碇屋小路までは材木町と呼ばれ、ここでは信濃川・阿賀野川筋・会津・加茂・三条などからの木材を扱った。 本町通は大川前通と同時期に開発された町で、当初新町と称されていた。扱う商品は米穀や海産物とされた。現5番町〜現10番町までの通りの両側にある約100軒の商店は「表店」とよばれ、元禄(1688〜1704)頃は絹布・太物・繰り綿・茶・小間物は表店に限られた商品であった。現11番町の西側は肴町と呼ばれ魚問屋の町であった。現1番町〜4番町には履物屋が集中していて、現5番町・6番町の朝市は古来より続くと天保14年(1843)の新潟町明細帳に記載されている。 今、これらの町並を歩くと、古い伝統的な様式の家が連なっている町並は見られないが、伝統的な様式で建てられた家屋が広範囲に点在する。そんな中に当地の豪商の旧小澤家住宅が公開されていた。 角川日本地名大事典 角川書店 角川日本地名大事典編纂委員会 1989年 新潟県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1986年 |
上大川前通12番町の町並(旧小澤家住宅) |
上大川前通12番町の町並(旧小澤家住宅) |
上大川前通12番町の町並 |
本町通13番町の町並 |
本町通13番町の町並 |
本町通12番町の町並 |
本町通11番町の町並 |
上大川前通12番町の町並 |
上大川前通12番町の町並 |
上大川前通11番町の町並 |