楢川村奈良井の町並  
上町・中町・下町
地図


上町の町並

奈良井宿は中山道木曽路で北から2番目の宿場町で、鳥居峠をひかえた木曽路の中でも最も標高の高い位置(約940m)にある宿場町である。
慶長7年(1602)徳川家康により、中山道67の宿駅が定められると、奈良井宿もその一つとなり、難所の鳥居峠をひかえて「奈良井千軒」といわれるほど繁昌した町で、木曽十一宿の中では最も賑わった町である。平地がなく農作物のとれないこの地が、これほど栄えた背景には、奈良井独特の産業としての木工業があったことがあげられる。
江戸初期は幕府領であったが、元和元年(1615)から尾張藩領となりそのまま明治維新を向かえた。奈良井宿は享保6年(1721)家数170軒・1595人。寛政12年(1800)家数408軒・1862人であるが、天保9年(1838)には家数216軒・772人と激減している。これは天保7年(1836)の飢饉と、同8年の火災によるもので、同12年(1841)には1324人まで回復している。
天保14年の「中山道宿村大概帳」によると、規模は町並8町5間と大きく、本陣1・脇本陣1・旅篭5・問屋2である。他の宿に較べて旅篭が少ないのは、檜物細工や櫛塗物・漆器関係の職業が多く、他の宿場と大きく異なっているが、茶屋も含めると40軒ほどあったそうで、木曽路最大の宿場であった。 
享保9年(1724)田畑御検地之節留書によれば、宿内219軒のうち、塗物師44戸・檜物師99戸で宿内の約75%を占めている。
製品は江戸・大坂・京都といった大都市にまで広まり、これを商う商人や多くの檜物職人・漆塗職人などが集まり、相当な賑わいであったと思われる。
宿場町は、南の京都側から上町・中町・下町の三地区に分かれている。約1kmほどの家並みは、曲線を描きながら鳥居峠に向かってゆるやかに登っている。道幅が上町・中町・下町で異なり、中町が一番広く6〜8mもあろうか、次いで上町で5〜6m位、一番道幅が狭いのは下町で4mそこそこである。下町では狭い道に出梁造りの軒がせり出し、道路が湾曲しているのも加わって、この先道路が消滅してしまうのでは、との不安も生じる。
現在見られる古い建物の多くが江戸時代の終わりころの天保〜弘化年間(1830〜47)に建てられたものだ。町家は現在では鉄板葺がほとんどだが、以前は石置き板葺屋根であった。通りに軒が並ぶ切り妻造りの平入り形式の二階建で、二階が一階よりも約45cmほど前にせり出した出梁(桁)造りになっていて、その上に登梁と出桁によって大きく突き出した垂木をささえている。垂木の先には鼻隠板が付けられている。これらによって道路の両側から建物が覆い被さっているようで、他の宿場にはない町並みの景観を演出している。
奈良井宿の町並みのもう一つ特徴に、「猿頭のついた鎧庇」の軒庇があり、二階の柱から吊金具でつった庇がある。これは中山道でも奈良井宿だけに見られるものだ.
町家で公開されているのは二軒で、元櫛問屋・中村家と上問屋の手塚家。この中村家は奈良井宿保存のきっかけになった建物で、昭和44年すでに空家になっていたこの建物が、神奈川県川崎市の「日本民家園」に移築保存されることが明らかになった。「他所でそんなに高く評価されている建物なら地元で保存しようじゃないか」という住民意識が盛り上がってきて、昭和53年に妻籠に次いで国の「重要伝統的建造物群保存地区」の選定を受けることになった。外観は奈良井宿の町家の古い形式に復元されていた。正面の大きな特徴は猿頭・鎧庇のついた小屋根があることである。
もう1軒は上問屋の手塚家。現在の主屋は天保3年(1832)の火災の後、天保11年(1840)に建築されたもので、切り妻造り平入りの二階建てである。   
奈良井宿は国道から外されたため、宿場の町並みが昔のまま保存されていて、幕末の景観をよく遺しており、町並みの保存が図られている。                      
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参考文献  
   長野県の歴史散歩  山川出版社  長野県高等学校歴史研究会  1996年
   東海・北陸小さな町・小さな旅  山と渓谷社  1998年
   木曽 歴史と民俗を訪ねて  信教出版部  木曽教育会郷土館部  平成8年
   古道紀行  保育社  小山 和  平成3年
   中山道歴史散歩  有峰書店新社  斎藤利夫  1997年
   奈良井  楢川村役場  楢川村教育委員会  平成8年


上町の町並

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中町の町並

中町の町並

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下町の町並

下町の町並

下町の町並

下町の町並

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