三留野の中世は、木曾を支配していた木曾氏の一族妻籠氏が居館を置いていたところである。天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いに、豊臣秀吉に味方した木曾義昌の武将山村良勝が徳川家康方の保科正直らの軍を妻籠城に引き付けて死守し、濃尾平野への進出を阻んだ妻籠城の戦いは良く知られている。 江戸時代になって、慶長6年(1601)中山道の宿駅制定とともに、三留野も宿駅に指定され、宿場町として繁栄するようになった。 江戸期はじめは、幕府領であったが、元和元年(1615)からは尾張藩領となっている。 三留野村の家数・人数は、延宝2年(1674)の木曾谷諸事覚書に746人、享保12年()の「岐蘇古今沿革志」に116軒・739人、天保9年(1838)の「木曾巡行記」に177軒・1,123人、万延元年(1860)木曾村村台帳に207軒・1,177人となっている。庄屋は殆ど宮川家が勤めた。 宿の規模については、元禄5年(1692)の記録では、町長さ2町40間余とあるのに、天保14年(1843)の中山道宿村大概帳では、宿長さ2町15間、宿内家数77軒・人数594人、本陣1(鮎沢家)・脇本陣1(宮川家)・問屋2・旅籠32(大7・中19・小6)とある。 他の宿は元禄と天保とを比較すると、町長さが2倍近く拡張されているのが普通であるが、三留野宿の場合は反対に25間短くなっている。度重なる火災による宿の衰えが原因でないかと考えられている。 本陣の建物は明治の大火で焼失し遺構はなく、敷地跡は長野地方法務局南木曽出張所となっていたが、それも閉鎖されていた。 幕末の文久元年(1861)和宮降嫁の際には宿泊地に指定され、宿裏に御供えのための仮小屋を38も急造されている。 幕末期の生業は、農業では人口を養うだけの収穫がないので、人々は旅籠や茶屋のどの宿場稼ぎや山仕事で生活を維持していた。 明治44年に中央本線が開通し、木曾は飛躍的に発展した。特に三留野駅(現南木曽駅)は伊那への物資の集散地として栄え、駅周辺に急速に人家が増えていったが、三留野の宿場は駅から離れていたため急速に寂れてしまった。 今、町並は宿場町時代の面影を色濃く残しながら、ひっそりと静かに佇んでいる。過疎化は避けられず、無住になった家も多くあった。切り妻造りの出桁造りの丈夫な家が、旧中山道に沿って並んでいるが、活気が乏しい状態で人通りも殆ど無く、寂れてしまったという感じであった。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 1990年 長野県の地名 平凡社 下中邦彦 1983年 中山道歴史散歩 有峰書店新社 斎藤利夫 1997年 |
三留野の町並み |
三留野の町並み |
三留野の町並み |
三留野の町並み |
三留野の町並み |
三留野の町並み |
三留野の町並み |