中越地方の北部、信濃川左岸、黒川と旧黒川の西側で三島丘陵に挟まれた所に位置する。 寛永11年(1634)長岡藩主牧野忠成の次男、牧野康成(武成)が1万石を分封され、与板藩が成立すると共に城下町も形成されはじめた。しかし城郭も館程度の小規模なもので、城下町の形態も整わず、町はむしろ信濃川の水運に恵まれた在郷町的な性格が強く河岸場町・市場町として発達した。 1・5の六斎市や6月25日〜7月1日に至る市が開かれ、黒川や信濃川を利用した水運で、大坂への廻米や長岡・新潟への藩物資の輸送によって多くの豪商が出現した。大坂屋・備前屋・和泉屋などは越後屈指の豪商であった。 享保5年(1720)には備前屋善左衛門が5艘・大坂屋三輪権太夫の2艘など9名の船持ちのが14艘の川船をもって、大坂廻米や新潟湊・出雲崎湊を利用した幅広い商業活動で財をなしていった。 享保11年(1726)の人数2,358、享和3年(1803)の家数682とある。 打刃鍛冶が享保4年(1719)の調査で下町に4人、新町に3人おり、この伝統的技術は現在の与板金物業に引き継がれ、今も大工金物では国内有数の生産量を誇る。 明治12年三島郡役所が置かれ、三島郡の政治・経済・文化の中心地であったが、大正15年に郡制が廃され、鉄道網からも取り残されて、衰退の道を辿った。 町を歩くと在郷町として賑わっていた名残が余り残っていない。妻入りの伝統的な様式で建てられた建物も散見できるが、殆どは間口の狭い妻入りの町家建築だ。 余りにも古い町並みの伝統が残っていないのはどうしてだろう。雁木に代わって現代風なアーケードに置き換えられたためだろうか。それとも大火で焼けたためだろうか。地震の記録もあるが。戊辰戦争でも多くが焼けているが。 それでも伝統だろう妻入りの町家が並んだ景観はこの地の町並みの特徴をよく表していた。 角川日本地名大事典 角川書店 角川日本地名大事典編纂委員会 1989年 新潟県の地名 平凡社 下中邦彦 1986年 |
与板町与板の町並 |
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