県中央部の東部、中越地方の北東部、信濃川水系の刈谷田川上流部に位置する。 慶長3年(1598)堀秀治の入封にともなって、家臣神子田氏が栃尾城主として入ってきた。元和6年(1620)に牧野氏長岡藩領の栃尾組の御蔵所が設置され、次いで万治元年(1658)代官屋敷の御旅所が建てられ、代官が常駐するようになって、そのまま栃尾は幕末に至る。 町には早くから馬市が立っていて、元禄12年(1699)には六斎市が再興され、米穀問屋・麹屋・室屋・紺屋・鍛冶屋・屋根葺き・畳刺し・左官・石切・木挽・桶屋・桧物屋などの商人や職人が活躍していた。商業が発展すると町域も広がり、裏町もできて家数・人数も随分増加した。 元和元年(1615)家数93・人数589、延享5年(1748)家数156・人数728、天保12年(1841)家数341・人数1,636、慶応4年(1868)家数740・人数2,799と増加している。 江戸期の特産として紬手織があり、その仲買問屋町が栃尾町であった。紬は絹織物で、冬季の女性の賃機稼ぎとして農村の重要な副業で、栃尾紬の名称で全国的にも知られた。嘉永年間(1848〜54)には約3万疋も織り出しした。その後、紆余曲折はあったが今日の基幹産業織物の源泉となっている。 さて、古い町並みですが、雁木が備わった見応えのある町並みが展開していた。切妻造り妻入りの町家が続く町並みに木製の雁木が備わり、関西人の私から見るとほれぼれする町並みが展開している。資料によると紬織問屋の栃尾商人にたいする一揆からはじまった農民一揆による打ち壊し、明治初年の戊辰戦争による戦火で町は殆ど焼けているので、今の町並みはそれ以後に建てられたものだが、伝統を踏まえて建てられたので江戸期の雰囲気をよく今に残している。 それにこの地の建物の外壁に板壁が多いのも特徴の一つでしょう。海岸地方ならこの様な板壁が普通だが、ここでは森林資源に恵まれているのでこの様な板壁になっているのかも知れない。 角川日本地名大事典 角川書店 角川日本地名大事典編纂委員会 1989年 新潟県の地名 平凡社 下中邦彦 1986年 |
栃尾滝の下町の町並 |
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栃尾滝の下町の町並 |
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栃尾旭町の町並 |
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