「牛に引かれて善光寺まいり」の民話で知られる長野の善光寺は長野市街の北部にある。 天正10年(1582)武田氏が滅び、織田信長の家臣森長可が北信濃の領主として、松代の海津城に入った。信長の急死により森長可は逃亡、上杉景勝が北信濃を占領した。慶長3年(1598)上杉景勝が会津に移封させられ、田丸直政が海津城に、関一政が飯山城に入った。そして慶長5年(1600)の関ヶ原の戦い後、森忠政が海津城主になった。慶長7年(1602)森忠政が移封のあと、家康の六男松平忠輝が12歳で海津城主となったが、実権は重臣の大久保長安が握っていた。 長安は慶長9年(1604)諸街道に一里塚を設け、慶長16年(1611)には北国脇往還(北国街道)の諸宿に宿立てを命じ、善光寺(大門町)の宿も正式に決まった。そして伝馬宿町の特権として、善光寺町の大門町・西町・東町は市立てが許され、市立てをもって宿役の助成とした。 善光寺宿は大門町が本宿で、ここに本陣・脇本陣・問屋が置かれていた。 戦国時代、川中島の戦いの最中に、武田信玄は善光寺を甲府に移し本尊も移した。上杉謙信も越後春日山城下に善光寺を建てている。両将とも仏像・仏具や寺内・門前の人々までも移住させたので、善光寺門前は壊滅的な打撃をうけた。 本尊は武田氏滅亡後、各地を転々とした後、京都方広寺大仏殿の本尊として安置されていたが、豊臣秀吉によって慶長3年(1598)44年ぶりに信濃に移ったので善光寺は活気を取り戻した。初めは仮本堂であったが、宝永4年(1707)に現本堂が再建された。そして参詣者が激増し門前町も発達した。 寺領人数は享保6年(1721)5,049人であったが、約100年後の文政11年(1828)には8,048人と大幅に増加している 門前町と云っても善光寺平の経済的中心の役割をもっており、木綿布・麻・紙・種油などの集散地でもあった。大門町を中心に宿場町であったが、月12回の定期市が開かれていた。 このように善光寺町は近世には門前町であるとともに、善光寺平北部の物資の集散地であり、経済都市の性格を強く持っていた。明治に入って県庁の所在地となってから、中央官庁の出先機関・銀行などが集中するようになった。 この善光寺の門前町は旧北国脇往還の宿場町であって、大門町を中心に横町・栄町がある。2階部分を漆喰で塗り固めた土蔵造りの店舗が多くみられるが、宿場町の雰囲気じゃなく、上信濃の観光地、善光寺の門前町としての雰囲気だ。宿坊も多くあり仁王門の手前と、仁王門の中では本通りの左右外側は全て宿坊になっている。仁王門をくぐると本通りに面しては、仏具屋さんと土産物屋が塗込めの土蔵造りの店で参詣客相手に商いをされ、その後ろ側は、道を挟んで多くの宿坊が連なっている。 長野県の歴史散歩 山川出版社 長野県高等学校歴史研究会 1996年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 1990年 長野県の地名 平凡社 下中邦彦 1979年 |
西之門町の町並み |
西之門町の町並み |
西之門町の町並み |
長野の町並み |
長野の町並み(仁王門の内側) |
長野の町並み(仁王門の内側) |
長野の町並み(仁王門の内側) |
長野の町並み(仁王門の内側) |
東之門町の町並み |
東之門町の町並み |
東之門町の町並み |
東之門町の町並み |