北国脇往還松代道の川田宿と福島宿の間の街道筋に綿内集落がある。 綿内の名が最初に現れるのは弘治2年(1556)で武田春信がこの地を支配していた井上左衛門尉に宛てた書簡が最初である。井上氏が居城にしていたのは綿内要害(春山城)で、今の上信越自動車道綿内トンネル南約600m程のところにあった。 南北朝期から使われていた春山城は川中島の戦いの際にも、甲越両軍争奪の重要拠点の一つとされていた。弘治2年(1556)武田方の井上左衛門尉に守られていた春山城が上杉方の高梨政頼らに攻略され落城した。 綿内村は慶長7年(1602)の森忠政の検地で2,901石余りを記し、通称綿内三千石といわれ高井郡内最大の村であった。集落内は一直線で北国脇往還松代道に沿っていて、北は谷筋道で須坂へと福島宿への分岐点から、南は谷筋道と大豆島の渡(現牛島橋・落合橋)善光寺道の分岐点までの約600m間で街村を形成していた。 寛政2年(1790)西大滝(現飯山市)から上流福島宿(現須坂市)まで千曲川通船が許可され、寛政7年(1795)綿内村にも、河岸場一か所、富士川船5艘の願人があったが、許可されたかは不明。福島の上流松代柴村に通じたのは天保4年(1833)で、この頃には河岸場・積問屋もあったと推察できる。 綿内村の産物として煙草・鯉・鮭・鮒・芋・小麦・レンコン・くわい・木綿等であった。 集落の南寄り東側に堀内家がある。川中島の戦いに上杉謙信へ6尺棒200本を貸したとあり、この地の旧家にて郷士であった。この堀内家に古文書が多く残り、江戸後期頃は酒造ほか煙草・水油等を江戸へ移出していた。煙草水油勘定帳の天明5年(1785)度には、583両余りを支払っている。また文化元年(1804)の「江戸御邸御召出府ニ付諸色調覚」には530両一分余りを御用達し、同年藩江戸屋敷新築には70両献金している豪商であった。 この綿内集落を歩く前に、ここより4km程北の福島宿を訪ねていたのです。同じ街道筋で4Km程しか離れていないのに、どうして?と云うほど雰囲気が異なるのです。 福島宿で多かった土壁の長屋門がここでは見当たりません。街道に面した長屋門が無いので、主屋が街道に沿って建ち、妻を街道に向けていますが、入口は平入りになっている建物が多く、土壁のように見えてもモルタル塗りに色を付けているのです。 そして多くの家が白漆喰の塗込めになっていたのには驚きました。でも建築されたのは大正から昭和に入ってからの建物が多いようでした。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典 1990年 長野県の地名 平凡社 下中邦彦 1979年 |
若穂綿内の町並み |
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