長野市松代町の町並  
松代町
地図


松代町の町並み

 真田氏の城下町松代は善光寺平(長野平野)の南東端に位置している。三方を山に囲まれ、西北に千曲川が流れる要害の地だ。そこに城(海津城)を築いたのは武田氏だ。
戦国期は村上氏の勢力下にあったが、その没落後の永禄3年(1560)この地に海津城を築いたのは武田氏で、北信越攻略の拠点とし、同時に城下町も造った。
織田信長に代わると森長可が海津城に入り、織田氏の滅亡後は上杉景勝が領有し、その後、田丸直昌が入り、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦い後、森忠政が入封した。それ以後、花井吉成、松平忠昌、酒井忠勝を経て、元和8年(1622)真田信之が上田より入城し、以後約250年間の真田氏の支配が続き明治を向かえる。
城下町は武田氏時代に築城と同時に進められたようで、真田信之が多くの家臣団を率いて入封したことから、その当時までに城下町が成立していたようだ。
武家屋敷は城の周囲に殿町・清須町があり、町人町は谷街道(ここでは北国街道と重なっている)筋に沿って造られ、城の南で西から馬喰町・紙屋町・紺屋町・伊勢町と東に進み、そこから北に向かって中町・荒神町・肴町・鍛冶町の8町が造られた。
そしてその外側には中・下級武士の屋敷が置かれた。
人口は廃藩当時の徒士以上の家臣数が879人、家族を入れると約4,000人。町人町では寛文11年(1671)松代町間改帳によると388軒・人数推定2,000人、明和4年(1767)御町八町中男女人別相改には2,319人とあり、武家・町人合わせて約6千数百人と推計される。文久4年(1864)には町人町の人数は約2,700人とあり、城下町全体では約10,000人近いと推定されている。
松代は長く長野とともに北信の中心地であったが、長野県庁は長野になり、城は取り壊され、信越線も松代を通ることなく取り残され、政治・経済・文化の中心は長野に移り、松代は真田城下町の遺構を残す古い町へと変貌した。
明治20年頃には製糸工場が建設され、製糸の町として活気が出ますが、明治の終わりには陰りが見え始め、第一次世界大戦後の経済恐慌により衰退する。諏訪や岡谷を中心とした製糸業は大正期に最盛期を迎えているので、松代の製糸業は随分短命だった。
町人町の古い伝統的な様式の家屋は北国街道沿いに残っているが、町並みを構成するほど連なってはいない。建築様式から見ると殆どは明治に入ってからの建物と思われる。
そして武家町だった殿町には真田家やその家臣達のいろんな建物が残っている。
また、紺屋町や伊勢町の南側の中・下級の武家屋敷街にも、所々に武家屋敷跡が点在していた。               
町並み指数 40 
参考文献  
   長野県の歴史散歩  山川出版社  長野県高等学校歴史研究会  1996年
   角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  1990年
   長野県の地名  平凡社  下中邦彦  1979年


松代町の町並み

松代町の町並み

松代町の町並み(染物屋の松下家住宅)

松代町の町並み

松代町の町並み

松代町の町並み

松代町の町並み

松代町の町並み(旧横田家住宅)

松代町(殿町)の町並み(旧白井家表門)

松代町(殿町)の町並み(旧樋口家住宅)
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