中山道の長久保宿は江戸時代の殆どは長窪宿が正式名で、安政6年(1859)から宿名変更願が出されて長久保宿になったもの。 長窪宿は小諸藩領で、慶長5年(1600)関ヶ原の戦いの直後に成立したものと考えられる。近在や依田川沿いに散在した小集落の住民を移住させたという。 当初の長窪宿は西方段丘下の依田川沿いの地であったが、寛永7年(1630)依田川の洪水で流失したので、大沢山口の新設の長窪宿に移住した。当初の町並みは竪町のみであったが、宿の拡大に伴って横町が作られた。そして町並みは宿の中央でL字型に屈折し、東の笠取峠に向かう竪町に本陣・脇本陣・問屋などがの宿駅機能が置かれ、南に延びる横町には旅籠屋が多かった。横町は宿の発展に伴って順次南へと拡大していった。 享和元年(1801)の宿方明細帳には本陣・脇本陣が各1軒づつ竪町にあり、問屋場は2ヶ所あり、月の上半分を九右衛門が下半分を平右衛門が勤めた。旅籠屋は40軒で(大13軒・中10軒・小17軒)、その他の商人27軒とある。 長窪宿の旅籠屋が多いのは中山道の和田峠・笠取峠、諏訪道の大門峠への登り口であったこと、上田・松代への北国街道の分岐点であったため、人馬の往来が多かったためと思われる。 家数・人数は延宝3年(1675)97戸、正徳6年(1716)191・922、寛延3年(1750)215・904、宝暦8年(1758)188・966、安永10年(1781)185・876とある。 飯盛女は安永9年(1780)の問屋日記に、飯盛女が3名来たと見え、文化8年(1811)には21人、万延2年(1861)67人も抱えられていた。 天保14年(1843)の中山道宿村大慨帳では、宿の長さ7町52間、人数721、家数187のうち本陣1・脇本陣1・旅籠屋43・問屋場1で、旅籠屋の数が中山道筋で下諏訪宿に次いで多い宿場であった。前述の三つの峠を控えていたのと、飯盛女の存在があるのだろう。 今、旧宿場町を歩くと、笠取峠から下ってきた道が降り切るまでに長久保宿中央のL字型の曲折部分に差し掛かり、南に折れて横町になる。出桁造りの伝統的な家屋もかなり残り、特に竪町はかって宿場町当時の面影を色濃く残している。古い伝統的な建築様式は平入り切妻造りの出桁造りが標準のようで、千本格子を残した家も多かった。中には本卯建や袖卯建を揚げた家屋も見られた。 本陣石合家の建物は江戸初期の建物と推察されるが、奥まって建っていて写真も撮れなかったが門は街道に面していた。 角川日本地名大辞典 角川出版社 角川日本地名大辞典編纂委員会 1990年 長野県の地名 平凡社 下中邦彦 1979年 長野県の歴史散歩 山川出版社 長野県高等学校歴史研究会 1996年 中山道歴史散歩 有峰書店新社 斎藤利夫 1997年 |
長久保の民家 |
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長久保の旧本陣の門 |
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長久保の町並 |