村上市街は新潟県北部、三面川左岸に位置し、中世には本庄氏の本拠で、臥牛山にその居城があった。 慶長3年(1598)春日山藩主堀秀治の与力として村上頼勝がこの地に入り村上藩が成立した。 当時城下は本庄町と呼ばれていた。村上頼勝は臥牛山城(村上要害)と山麓の居館の整備、侍屋敷と城下町の拡張を行った。元和4年(1618)堀直竒が入封し、引き続き城郭の整備と城下町の拡張を行った。城下本庄町が村上と改まったのはこの時期と思われる。 藩主はその後、松平直矩・榊原政倫・本多忠孝・本多忠隆・松平輝貞・間部詮房と代わり、享保5年(1720)内籐弌信が入封し、以後9代にわたって内籐氏の支配が続いた。 城下の西面の二ノ丸・三ノ丸(現二之町・三之町)に家老屋敷をはじめ上級武士の屋敷を、城山の北東から東麓や南西方面に中下武士の屋敷を配した。足軽屋敷は城下入口にあたる所に配された。 寛永12年(1635)村上惣町並銘々軒付之帳によると羽黒町・長井町・六間町・上町・木加治町・大町・小町・下小町・庄内町・片町・新町・大工町・小国町・本塩町・寺町・新鍛冶町・肴町長岡町・馬喰町の19町からなり家数652と、堀氏による徹底した町割りがなされた。宝永2年(1705)の村上寺社旧例記によると家数831。町方の家数は天和2年(1682)8,692、元禄16年(1703)9,223、寛政3年(1791)5,866。 村上は出羽街道・三国街道・北国街道浜通りが集まる交通の要衝で、瀬波には北前船も寄港する政治・経済の中心地だあった。 村上城下町の特産としては茶と酒があげられる。茶は天和年間(1681〜84)に茶畑が80町に達し、宝永2年(1705)には畑154町の7割が茶畑となっていて、米沢・新潟・酒田方面に送られた。酒造の方は寛文5年(1665)酒造株38・酒造高11,090石に達し、その後幕府の政策で減石を余儀なくされたが、文政8年(1825)には8,000石を産した。大半は瀬波湊から松前方面に送られた。 今回訪ねた所は、旧大手前の大町・小町から出羽街道に沿った庄内町である。城下町当時から商業の中心地であった所。平入り切り妻造り、2階建ての町家が隙間なく建ち並んでいる。外から見ている限り江戸期に遡る家屋はないようだが、伝統的な様式の家屋が連なっている。 新潟県辺りでは切妻造り妻入りの家屋が多いが、ここ村上では平入りになっている。大町・小町には間口の広い大型の商家建物も点在し、かって城下町時代の商業で潤っていた頃の名残を残している。 小町から庄内町にかけては鉤型と云われる屈曲や食違いの道もあり、江戸時代の名残が色濃く残っていた。 角川日本地名大事典 角川書店 角川日本地名大事典編纂委員会 1989年 新潟県の地名 平凡社 下中邦彦 1986年 新潟県の歴史散歩 山川出版社 新潟県の歴史散歩編集委員会 1996年 日本の町並みV(別冊太陽) 平凡社 湯原公浩 2004年 |
庄内町の町並 |
庄内町の町並 |
庄内町の町並 |
庄内町の町並 |
庄内町の町並 |
小町の町並み、手前の家屋が芭蕉が泊まった旅籠跡 |
小町の町並み |
小町の町並み |
大町の町並み(造り酒屋さん) |
大町の町並み(造り酒屋さん) |
大町あった家屋ですが、多分お寺だと思います。 |
大町の町並み |