塩谷は古くから新潟から村上への北国街道浜通りの宿駅として、また、荒川河口の湊として栄え、「正保国絵図」には200石船が入るとあり、村上藩の番所が置かれていた。 江戸時代はじめは村上藩領、寛永19年(1642)幕府領、正保元年(1644)から再び村上藩領として明治を向かえる。 集落は荒川河口右岸にあるが、かって現在地より約500メートルほど内陸寄りの字古屋敷にあったようだが、享保16年(1731)頃海岸寄りの現在地に移転したようだ。 文禄(1592〜96)頃の瀬波郡絵図には、家18軒描かれ、砂防の垣根に囲まれており、荒川対岸桃崎浜村との間に渡船が描かれている。また東方内陸には潟湖が広がっている。 延享3年(1746)の町明細帳では、家数66・人数304・漁船9艘、50石積渡海船1艘。桃崎浜まで16町3間の間には渡船があり、渡守の家数10・人数45で村上藩より渡守給米10石4斗余を受けていた。 江戸初期に西廻航路が開かれると、桃崎浜・海老江とともに重要な湊として発達した。正保国絵図には荒川河口に「此湊荒磯ニ而船懸り不罷成候 波風なく候へハ 二百石船入申候」と記されている。塩や海産物などの移入品は米沢城下まで、荒川の舟運を利用して運ばれ(小国・米沢間は陸路)、米沢藩の城米も荒川を下って江戸へ送られる根拠地として発展していた。また、その他の幕府領や大名領の村々の年貢米を積み出す湊となっていた。 明治になり、城米積出し港として栄えていた塩屋も、羽越本線開通後は衰退の一途を辿った。現在は港の機能もなくなり、僅かな漁業者が居るのみになってしまった。 今、塩谷集落を歩くと切妻造り妻入りの重厚な家屋が連なっているのにはびっくりする。 一歩、町並みの裏側に入ると、冬、荒れ狂う日本海の海岸の砂浜だ。訪ねたのは11月末だったが、日本海から吹き付ける潮風が強く、とてもカメラを向けられる状態じゃなかった。 厳しい条件の中で生活されている塩谷集落の方々、でも伝統的で重厚な家屋で構成された家並みは見事だ。何時までの残してほしい町並みだ。 海岸に沿って約1kmにも及ぶ街村を形成していたが、古い町並みが展開していたのは北端近くの約200m位のところだ。その中に味噌・醤油の醸造業者が居られたのにもビックリの町並み探訪だった。 角川日本地名大事典 角川書店 角川日本地名大事典編纂委員会 1989年 新潟県の地名 平凡社 下中邦彦 1986年 日本の町並みV(別冊太陽) 平凡社 湯原公浩 2004年 |
塩谷の町並 |
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