岩船町は村上市街の南西6〜7kmの西川河口左岸南側に位置する。岩船集落の東側に丘陵がその東側に、かっては岩船潟が広がっていて、南の砂丘と東の丘陵に囲まれた低地に集落があり、北は岩船潟から海に注ぐ西川が西に貫流していた。(今は岩船潟は全くありません) 七湊川・石川(支線)・笛吹川・百川が低地中央に集まり石川(幹線)となり、集落北側を日本海の注ぎ、その河口に岩船港がある。 元禄8年(1695)干鰯200俵を積んだ岩船の船が能登沖で遭難した記録があるので、当時すでに廻船業を営む者がいたことが知られ、元禄16年(1703)と推定される村上拾五万石御領内諸書留帳には商船34・漁船70とあり、瀬波町や寺泊町を上回っている。寛政元年(1789)の岩船町御案内帳では商船25・漁船88、沖の口番所二ヶ所が設けられていた。 享保20年(1735)の町明細帳によると家数は百姓25・水呑91・漁師189・船大工12・商人383・酒屋7の他鍛冶屋・紺屋・糀屋など47。人数は3,606とある。 北国街道浜通りから出羽街道に続く道が集落を通り宿場町でもあった。元文5年(1740)に2・4・7・9の十二斎市が始まったが、長続きせず毎年7月2日より7日までの市に変更されている。 岩船湊を経て村上領に入ってくる物資は上方からの塩・綿と蝦夷地からの海産物が主であった。また岩船近辺で獲れた魚は浜焼きに加工され、郡内や出羽米沢および小国まで送られた。このように岩船の商業活動は活発だった。 明治期には浚渫工事等の港の整備が行われ、岩船港は新潟ー酒田間の定期船、函館・小樽との間の不定期船の寄港地となったが、西川の漂砂のため大型船は入港できなかった。 岩船潟は明治後期から昭和28年までかかり干拓が進み、河川改修・圃場整備が行われて、完全に陸地化された。 今町並みを歩くと、在郷町・港町・漁師町などが一緒になったような感じの町並みと感じるが、江戸期まで遡る町家は無さそうだ。町並みは比較的整然と整備されている。いつかの時期の災害を契機として整備されたものだろう。大きな範囲ではないが、かって活発に経済活動が行われていただろう様相が感じられる町並みだった。 角川日本地名大事典 角川書店 角川日本地名大事典編纂委員会 1989年 新潟県の地名 平凡社 下中邦彦 1986年 日本の町並みV(別冊太陽) 平凡社 湯原公浩 2004年 |
岩船上浜町の町並 |
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