小田井宿は中山道の宿駅であるが、追分宿と岩村田宿の間にあって繁栄せず、文化2年(1805)刊行の「木曽路名所図会」には「駅内弐町ばかり。多く農家にして、旅舎少なし。宿悪し。東の出口に薬師堂あり。追分の駅迄家なし」と書かれ、小さな宿で寒宿であったことが判る。 天正10年(1582)小田井城が依田信蕃の手に落ちて後廃城となり、天正16年(1588)には附近の上小田井・山王・十二・小玉・須賀沢等の民家26戸と長倉神社を移して新しい町割りされた(小田井町割諸事の控)。慶長15年(1610)には既に宿駅の形が整っていたと思われる(北佐久郡志) 天保14年(1843)の中山道宿村大慨帳によると、町並みの長さ8町40間、家数107、人数319、本陣1、脇本陣1、旅籠5、問屋2。 元禄7年(1694)に小田井・岩村田両宿一体の助郷が確定したが、その大部分が遠隔地であり、延享3年(1746)助郷の改編以後の場合は、助郷20ヶ村中、隣接村は3ヶ村のみで、他は全て2〜3里も離れた村々であり、実際の出役には不便で、勤高一石につき一ヵ年9両2分の出金で代えていたほど、負担の大きな宿場だった。 小田井宿は大名などの宿泊は少なかったが、皇女和宮も昼食を取ったのを初め多くの姫君が利用したので、「姫の宿」ともよばれていた。隣の追分宿が飯盛り女を200人も抱える歓楽街となっていたので、姫たちはそこを避けたのであろう。 小田井宿は道幅も広くゆったりとした町並みを展開している。切妻で出桁造り・千本格子を残した町家、妻面を真壁造りにした信州特有の建て方、中にはスズメオドシ迄備わった町家もあった。 旧本陣建物・旧上問屋・旧下問屋の建物が残っているが、いずれも居住されていて公開はされていなかった。その他に旅籠屋だったような建物も多く見かけられる。 小さな宿場だったにもかかわらず、いずれも質の高い建物であるのには驚く町並みだ。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典 1990年 長野県の地名 平凡社 下中邦彦 1979年 長野県の歴史散歩 山川出版社 長野県高等学校歴史研究会 1996年 中山道歴史散歩 有峰書店新社 斎藤利夫 1997年 |
御代田(小田井宿)の町並み |
御代田(小田井宿)の町並み |
御代田(小田井宿)の町並み(下問屋跡) |
御代田(小田井宿)の町並み |
御代田(小田井宿)の町並み(上問屋跡) |
御代田(小田井宿)の町並み |
御代田(小田井宿)の町並み |
御代田(小田井宿)の町並み |
御代田(小田井宿)の町並み(本陣跡) |