中越地方の北東部、刈谷田川が東山丘陵から新潟平野に流れ出る自然堤防上に造られた町。はじめ村上藩、正保2年(1645)からは村松藩領。 村松藩によって寛文年間(1661〜73)に、見附町元町より住民をこの見附新町や見附町に移転させ、刈谷田川の右岸山沿いに道路を付け替え丹波街道と称し参勤交代道路とした。 この見附町・見附新町の移転・新設と道路の開設は、陸上交通と刈谷田川船運とを連結させる村松藩の経済政策の一環であった。その後寛文13年(1672)に見附本陣の造営、延宝3年(1675)御旅屋建立、また同年三貫野往来道の開通などにより、村松藩の領内支配の拠点として、交通・流通の要所として発展した。 町立ての移動と時を同じくして六斎市も開設され、この本町辺りは大いに賑わっていた。 寛文10年(1670)の見附町・新町の家数248・人数1,077。天保2年(1831)には家数2,539・店数935となり、明治元年には家数4,649・店数1,747となった。 物産の木綿織は村松藩の意向を受けた見附町商人によって結城(茨城県結城市)から技術が導入され、天保年間(1830〜44)以降急激な発展を見て見附一帯で盛んになった。 その後は、綿織物から絹織物・絹綿交織物・柞蚕糸による製品・人絹糸・スフ糸などの原材料の変化、ナイロンに始まる合成繊維の導入などを経て、繊維産業は現在見附市の主力産業となっている。 さて、古い町並みだが、本町3丁目に切妻造り妻入り2階建てで雁木を備えた見事な町並みが残っていた。新町から続く広い通りは本町2丁目と本町3丁目の境で道幅が狭くなり、雁木が残るこの古い町並みになる。 本町2丁目・新町辺りでも雁木が続く町並みだってようだが、道路拡張ににより全て取り壊され、近代的なアーケードの雪よけができていて、風情が全く感じられない光景になっていた。 雁木が残るこの町並も何れは雁木が取り払われた道路拡張工事が行われるであろうが、市民生活に支障が生じない範囲で残してほしい雁木の町並みであった。 角川日本地名大事典 角川書店 角川日本地名大事典編纂委員会 1989年 新潟県の地名 平凡社 下中邦彦 1986年 |
本町3丁目の町並 |
本町3丁目の町並 |
本町3丁目の町並 |
本町3丁目の町並 |
本町3丁目の町並 |
本町3丁目の町並 |
本町3丁目の町並 |
本町3丁目の町並 |
本町3丁目の町並 |
道路が拡張された本町2丁目辺りのアーケード |