松本市中町通り 
中町通り(中央2・中央3)
地図


中町通りの町並み

 松本市は県の中央部に位置し、古くから城下町・商都として栄えてきた。
松本の近世的城下町の構想を練ったのは石川数正で、構想・企画がほぼ出来上がったのは石川数正の子康長の時のようだ。起工・竣工は明らかでないが、元和年間(1615〜24)にはほぼ完成していたようだ。
城下町松本は交通の中心地でもあり、多くの幹線街道が通っていた。その中でも一番重要なのは、中山道の洗馬宿から分れて北上し、松本を通って長野善光寺に向かう北国西脇往還と、松本から江戸に向かう道で、保福寺峠を通って上田に向かい北国街道そして中山道碓氷峠を超えて倉賀野宿から江戸に向かう道、そして糸魚川に通じる千国道が特に重要であった。
城下町は女鳥羽川の大手橋(現千歳橋)より北が武家屋敷(東に町人町あり)、南が町人町であった。中山道洗馬宿から分れた北国西脇往還が城下に入った南北の通りの本町には、問屋・本陣の倉科家、使者宿・脇本陣の今井家、飛脚問屋の近藤家などがあり、大手橋(現千歳橋)の手前で東に折れた東西の通りに、塩問屋・肴問屋などの商店や旅籠のある街筋が中町であった。
松本の享保10年(1725)の「松本町帳面覚」によると町人町13町、総町家数1,233・世帯数2,351・人数8,206。又同年の「松本町雑纂」よると、侍屋敷は城内98・木戸外660など屋敷合計920・人数6,072(内下男下女1,249)とあり、全部合わせると2,153が城下町の総戸数である。
中町・本町の家数は寛文4年(1664)中町111軒、享保9年(1724)106軒とあり、本町は安永5年(1776)頃には130軒余りとある。
荷物問屋の数は宝暦6年(1756)には、本町16・中町12・安原町1・博労町1で本町・中町が圧倒的に多く、両町が松本城下の経済活動の中心であったことが判る。
嘉永2年(1826)に出版された「善光寺道名所図会」によれば、城下は大通り13街、町数およそ48町、商家が軒を並べ信濃国第一の都会で、牛馬の荷物1日1,000駄が動いていた。
明治に入ってからも、中町・本町はこの地域の商品流通を担う町として栄え、大店が軒を並べ、道の両側には白壁や黒壁の土蔵造りの商家建物や洋館が並んでいた。大正時代になり、日本銀行松本支店が設置され、松本は長野県の金融・経済の中心地なっていった。
昭和30年代に入り、モータリゼーションの普及で、商品の運搬は鉄道からトラックに変わり、中町・本町から大きな問屋などが郊外に移転して、町は寂れてきた。そこで近年区画整理事業で町並みを修復して歴史ある松本市をアピールするために電柱の地中化や黒壁・白壁・ナマコ壁の修復事業を行い、町並みの活性化や観光に力を入れているが、思ったほど観光客も延びていないように思えた。
尚、女鳥羽川の北側の縄手通り商店街も古い町並み様な家屋が建ち並び、明治時代を思わす町並みであったが、中町・本町の整備に合わせて造られた町並みのように感じたので、掲載は控えた。
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参考文献
   角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  1990年
   長野県の地名   平凡社  下中邦彦     1979年
   長野県の歴史散歩  山川出版社  長野県高等学校歴史研究会  1996年

中町通りの民家

中町通りの民家

中町通りの民家

中町通りの町並み

中町通りの町並み

中町通りの町並み

中町通りの町並み

中町通りの土蔵群

中町通りの町並み

中町通りの町並み
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