木曽路は山の中というが、木曽路の美濃側からの最初の宿場馬籠宿は恵那山の麓からの広がりもあり、美濃方面を望める展望もひらけている、何となく明るい宿場だ。 関ヶ原の戦い後家康は、直ちに江戸と京都をつなぐ東海道の宿駅と伝馬制を確立し、そして中山道も整備され、宿駅を定めて伝馬制を実施した。中山道の中央部にあたる木曽路においても、11宿が設けられ馬籠宿もその一つとなった。そして江戸時代を通じ、馬籠島崎家が中山道開発当初から、明治維新まで一貫して馬籠の本陣、問屋、庄屋を兼ね、島崎本陣を中心に、坂の上下に宿場町が形成されたのである。 江戸のはじめは幕府領であったが、元和元年(1615)より尾張藩領で明治維新となる。宝暦3年(1753)の家数118軒・人数633人。天明7年(1787)には家数110軒宿の長さ3町33間。天保14年の中山道宿村大概帳では家数69軒・人数717人、本陣1・脇本陣1、旅篭18軒であった。 宿場は明治28年の大火で殆ど焼失し、昔の面影を残すものは石畳道と桝形だけとなった。現在民家は殆どすべて、みやげ物屋、民宿か飲食店である。昔の宿場も本来こういう姿だったのだろう。馬籠宿は古風な建物というより古風をよそおった町並み、石畳の街道であり桝形もあり馬籠宿ではここを車屋坂という。 江戸に幕府を開いた徳川家康も用心を怠ることなく、どの宿場にも桝形を造らせた。馬籠宿の桝形は急坂に構えているため、石垣を積み、石段を設け、他の宿場と比べても一段と厳しい防禦の姿勢である。 馬籠での人気は藤村記念館である。ここが島崎藤村の生家・馬籠本陣の跡である。彼はこの本陣で明治5年3月に生まれている。生家の本陣は明治28年の大火で類焼した。 この藤村記念館が村人の力の結集で設立されたのは、藤村没後5年の昭和22年のことであった。 藤村記念館の上側が大黒屋で、大きな杉玉があがっている。大黒屋は藤村の代表作「夜明け前」にも登場するが「初恋」の花ある君 「おゆうさん」はここの娘さんだった。おゆうさんは妻籠の脇本陣林家へお嫁にいってしまった。大黒屋の大脇兵衛門信興が、文政3年(1826)から明治3年にわたる44年間の自筆記録「大黒屋日記」の資料が、藤村の「夜明け前」の創作資料となり、創作意欲を燃やす基となった。 長野県の歴史散歩 山川出版社 長野県高等学校歴史研究会 1996年 東海・北陸小さな町・小さな旅 山と渓谷社 山と渓谷社大阪支局 1998年 木曽 歴史と民俗を訪ねて 信教出版部 木曽教育会郷土館部 平成8年 古道紀行 保育社 小山 和 平成3年 中山道歴史散歩 有峰書店新社 斎藤利夫 1997年 角川日本地名大事典 角川書店 角川日本地名大事典編纂委員会 |
宿内の枡形附近 |
馬籠宿内の町並み |
宿内の町並み |
宿内の町並み |
馬籠宿内の町並み |
藤村記念館内の景観 |