更埴市は長野市の南約12〜13kmのところ、善光寺平の南部に位置している。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの後、北信濃には家康の六男松平忠輝が松代城にはいり、慶長15年(1610)には、越後・北信濃の60万石の大大名となった。そして元和2年(1616)の忠輝改易後の領地異動は激しくなったが、松代城主には松平忠昌がなり、稲荷山あたりを支配していた。その後幾多の支配者の変遷を経て、宝永3年(1706)から松平忠周が上田藩に入封し、以後明治維新まで稲荷山は松平氏の支配がつづいた。 善光寺道は北国街道と区別して北国西街道という。古代より善光寺参詣への道として、「善光寺道」とも呼ばれてきた。北国西街道は中山道の洗馬宿で分かれ、郷原・村井・松本・岡田・刈谷原・会田・青柳・麻績・猿ヶ馬場峠・桑原・稲荷山を経て篠ノ井追分で北国街道に合流する道である。 稲荷山は天正10年(1582)に稲荷山城が築かれ、同時に町割及び伝馬制度がしかれたと考えられる。町割は新町・五日町・横町・柳町の四町で構成され、後に新町を荒町に、五日町を中町に改めている。四町による町の形成によってだんだんに宿場としての機能も整ってきたと考えられる。この時に洗馬宿から篠ノ井追分宿まで宿駅制度が整ったようだ。しかし正式には慶長19年(1614)の松本城主小笠原秀政による、郷原宿から麻績宿までの「伝馬定書」をもって、北国西街道の成立と云われている。 慶長19年(1614)北国西街道の整備、洗馬−麻績間の宿駅制度の整備によって、稲荷山宿も北国西街道(善光寺道)の宿としての役割も確立した。 稲荷山宿の本陣・問屋は松木家が兼務で勤めることが多かった。最初の問屋職は三崎喜兵衛が勤めたが、寛永10年(1633)以後は松木家が勤めている。 宝永3年(1706)の家数206軒・人数904人。天明8年(1788)には家数305軒・人数1583人。文久2年の家数436軒・人数1615人。300人位で間に合う耕地に1600人もの人がいた。これは稲荷山が在郷町で商業地であり、かつ、宿場町であったことがわかる。 稲荷山の商業は善光寺平に運ぶ上方の荷物を受け入れる問屋活動と周辺の農山村への生活物資を供給する商店とから成っていた。稲荷山を代表する商業は繊維関係の商いであった。その中でも呉服関係と生糸の産出が最たるものだった。稲荷山は善光寺平に入る関所のような所にある商業地だったから、明治初年、稲荷山町の所得税額は長野県で第2位、呉服反物取引は第1位だったそうである。 稲荷山の町中には、明治中期・後期に商業の町として繁栄していた名残として重厚な土蔵造りの商家・どっしりとした白壁の土蔵が建ち並んでいて見応えのある町並みであった。 長野県の歴史散歩 山川出版社 長野県高等学校歴史研究会 1996年 更埴市史/更埴市 更埴市史編纂委員会 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 |