甲府市右左口町の町並み 
右左口町
地図


右左口町の町並

 甲府市右左口(うばぐち)は甲府盆地の南部、甲府市街より南約10kmに位置している。
中世より甲斐(甲府)と駿河(吉原宿)を結ぶ中道往還の宿場が置かれていて、交通の要衝として栄えた。海産物輸送路として利用され、甲斐と駿河を結ぶ最短路であったので、この右左口宿も大いに繁栄した。
江戸初期は幕府領、のち甲府藩領、享保9年(1724)からは幕府領(はじめ石和代官所、明和2年(1765)からは市川代官所支配)。享保9年(1724)の家数187・人数939、明和5年(1768)の家数243。文化初年(1804〜18)の家数245・人数815・馬47とある。
天正10年(1582)徳川家康の甲斐入国に際し村民が献身的に奉仕した功労として、右左口村には関所の通行や塩や海産物などの売買・輸送を免許する朱印状を与えれていた。その特権を利用して駿河産の塩や海産物を国内(甲斐)で売買する商人が78人もいた。もともと山間部に立地するため耕地が少なく、農間稼ぎの出商売が盛んに行われ土地もその背景にあった。
だが、慶長6年(1601)富士川の通船が開かれ、従来中道往還を利用していた諸荷物の輸送は次第に舟に奪われていった。
只、この中道往還は公用通行が少なかったので、伝馬役は人足2人・馬2疋と少なく、甲州街道の人足25人・馬25疋に比べると極端に少ないが、諸荷物の運送が本街道と変らなかったので、人馬継立て業務は活発であった。
明治36年の国鉄中央線の開通、昭和初年の富士身延鉄道の開通で、中道往還の機能が無くなり商業活動が低下していった。
今、右左口を歩くと、かって繁栄していた時代を彷彿とさせる漆喰塗込めの家屋と土蔵が出迎えてくれる。往還は昔のままの幅だろう。それにしてもこの山間僻地にどうしてこのような漆喰塗込めの家屋や土蔵が連なるのかと不思議に思う。
中道往還はその後次第に廃れ、誰も通らない道となっていたが、昭和43年に自衛隊によって旧右左口峠辺りの道も開削された。その中道往還の右左口峠道も今はトンネルとなり、国道358号線として幹線道路となっている。
町並み指数 40
参考文献
   角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和59
   山梨県の地名  平凡社  (有)平凡社地方資料センター  1995年        


右左口町の町並

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