小諸は城下町・宿場町・商業町と3ッの機能を融合させた町で、東信の藩都として栄えていた。 先ず城下町としては、長享元年(1487)大井伊賀守光忠が鍋蓋城(なべぶた)を築いたのに始まり、武田信玄、依田(松平)2代、仙石2代に続いて、6名の城主が在城の後、元禄16年(1703)牧野氏が入城して明治維新に至っている。 次いで宿場町としては、小諸は古来より交通の要衝であったが、慶長年間(1596〜1615)の主要道の道路整備によって、中山道追分宿から北国街道が分岐して小諸を通っている。宿場は初め本町と市町がその役割を果たしたが、寛保2年(1742)の大水害で本町が壊滅的な打撃を受け、市町が以後宿場機能を受け持つようになった。加賀藩主前田氏を初めとして、北陸・越後・信濃の諸大名がこの宿を利用した。 商業面では、中山道碓氷峠を越えて信濃の最初の城下町であることと、いろんな道路が集まる地の利から、各地の物産が集散・流通する中心地となって、米穀商をはじめ各種の問屋が活躍した。 小諸を歩くと一番最初に気になったのは、城跡が低い所にあることだ。普通は城は高い所にあるものだが、小諸では城が下にある。江戸初期から城下町が発展し、次第に浅間山の傾斜地を通る北国街道に沿って延びていったため「坂の町」となり、結果的に城郭が低い所になってしまった。 次に気になったのは、旧本陣や旧脇本陣が宿はずれにあることだ。これも一般には宿の中心にあるものだが。これは寛保2年(1742)の大水害に起因している。元々本陣は今の本町2丁目の塩川家の位置にあったものだが、水害で流されたため、今の市町に移ってきたものだ。 さて、町並みはどうか、市町一丁目には旧本陣門と問屋場の建物・脇本陣建物が残り、造り酒屋さんの建物もあり、宿場の面影を色濃く残している。この辺りも当然中山道沿いだが、宿場町としては急坂な所だ。本陣・脇本陣前がこれほど急坂の宿場は無いのではと思う。本陣の主屋は別のところに移転していたが、本陣門に続いて問屋場の建物が残っている。妻入りの出桁造りという珍しい建て方をした建物であった。 ,本町筋は宿場町でも北国街道に沿った商業地である。寛保2年(1742)の大水害は思いがけない災害であった。北方を流れる中沢川・松井川が氾濫し、堰き止められたものが決壊して、土石流でことごとく破壊されたものである。私も最初は千曲川は遥か下を流れているし、どうして水害がと思ったもの。その後復興し小諸の経済の中心となった。そして今に続いて老舗の商家や問屋が多く軒を並べている。白漆喰塗込めの商家建物に混じって、黒漆喰塗込めの味噌屋さんの建物がひと際目を引いた。 長野県の歴史散歩 山川出版社 長野県高等学校歴史研究会 1996年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 1990年 長野県の地名 平凡社 下中邦彦 1979年 |
本町2丁目の町並み |
本町2丁目の町並み(そば屋さん) |
市町1丁目の旧脇本陣 |
市町1丁目の造り酒屋 |
市町1丁目の旧本陣 |
大手1丁目の町並み |
本町2丁目の町並み(写真中央左寄りが旧本陣のあった所) |
本町2丁目の町並み |
本町3丁目の町並み |
本町3丁目の町並み |
本町3丁目の町並み |
大手2丁目の造り酒屋 |