木祖村薮原は鳥居峠をもって楢川村奈良井と境し、奈良井宿同様、峠を控えた宿場として中山道の木曾11宿でも3〜4番目に大きな宿であった。 鳥居峠は戦国領主木曾氏の木曾防衛の北方の第一線であり、しばしば古戦場となっている。 江戸時代はじめは幕府領であったが、元和元年から尾張藩領となった。薮原宿の成立は、他の木曾の宿同様、天文年間(1532〜55)というが、正式には江戸幕府の五街道設定による。 宿の長さは元禄5年(1692)では3町38間であったが、天保14年(1843)の中山道宿村大概帳では5町25間とあり、宿が拡張されている。 延宝2年(1674)の人数885人、享保12年(1727)家数302軒・人数1,632人、天保9年(1838)家数378軒・人数2,009人であった。弘化5年(1848)薮原村人数改帳によると、旅籠14・茶屋8・櫛挽239・櫛磨19・櫛商19・細工櫛3などとなっており、宿人口の約6割が木櫛関係の職業に従事し、本陣・脇本陣・問屋・旅籠・茶屋・庄屋などを含め大きな商工業都市であって、大きな消費地であった。 前述の中山道宿村大概帳では宿内家数266軒・人数1,493人、本陣1・脇本陣1・問屋2・旅籠10(大1・中3・小6)となっている。 宿の名産木櫛は「お六櫛」の名で知られ、江戸中期から後期にかけて盛んに生産販売され、薮原宿は規模でも流通の上からでも、奈良井宿・福島宿と並び栄えていた宿場町であった。 明治期に入ると、中山道とその宿場は次第に役目を終え、代って国道・鉄道が整備され、明治45年には中央本線が全線開通し、宿場の使命は終了した。 今でも町並を歩くと、出桁造りの商家の建物や「お六櫛」の看板をあげた商店が見られるものの、かっての賑わいはなく、ひっそりと静かな佇まいだ。でも宿場町の名残は、町並の中に色濃く残り、旅をいそぐ旅人で賑わった街道筋の光景が彷彿としている。そんな中で「こめや」と看板をあげた元旅籠の建物があり、宿場の面影をよく残していた。 明治・大正・昭和と時代は大きく変化し、藪原村では現在でも林業や木材加工業にかかわっている方が多いが、その基盤産業の衰退と過疎のため、観光地化での再生を模索されていた。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 1990年 長野県の地名 平凡社 下中邦彦 1983年 中山道歴史散歩 有峰書店新社 斎藤利夫 1997年 |
薮原の町並 |
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薮原の町並 |
薮原の町並、旧旅籠米屋 |