中世の木曾一円はは木曾義仲の子孫を名乗る木曾家村が足利尊氏から支配を任されていたが、天正18年(1590)木曾義昌は豊臣秀吉によって下総へ移封され、尾張犬山城の石川光吉が木曾代官に任命された。石川光吉は福島・岩郷などの代官に山村道祐を任命している。 江戸時代のはじめは、木曾檜の良材を産する木曾を幕府領とし、関ヶ原の戦いで功のあった、山村道祐を代官に命じた。元和元年(1615)から尾張藩領となったが、山村氏は幕府と尾張藩と両方に属することになり、福島に居館や役所を置いたため、福島は城下町のような様相を呈し、木曾の中心地となった。山村氏は以後、13代にわたって木曾を統治した。 当初は山村氏が全てを支配していたが、寛文5年(1665)から上松材木役所が設置され、山方は藩直轄、村方は山村氏の所管となった。福島関所は福島の町並の北はずれに置かれ、「出女・入鉄砲」と称して女と鉄砲が主として改められた。 中山道福島宿の成立は古く、永禄年間(1558〜69)にはもう宿駅が成立していたようである。 寛政年間(1789〜1800)向城家中屋敷図や享保14年(1729)福島宿の町方絵図によると、木曽川右岸に山村代官屋敷・地方役所・家臣団の住む向城(向町)を中心として多くの町があり、木曽川左岸に福島関所があり、そこから福島宿本陣を挟んで上町・下町、脇本陣を挟んで七軒町・横町があった。そして宿はずれに上之段町・寺門前・川原町・八沢町があった。 延宝2年(1674)諸事覚書に福島宿932人・上之段250人・八沢281人などの記載がある。天保9年(1838)倉沢見録に福島宿245軒・1,022人、上之段町80軒・302人、八沢町61軒・198人。 福島宿の職業は商業60・旅籠22・茶屋5・大工7などで、上之段町は商業18・茶屋4・大工6などであった。 天保14年(1843)の福島宿村大概帳によると、宿内町並は三町55間、宿外の上之段町・八沢町も加えると七町40間、宿内家数158軒・人数972人・本陣1・脇本陣1・問屋2・旅籠屋14(大1・中5・小8)であった。本陣は宿の中央にあり、白木家が問屋を兼て勤めていた。今は本陣跡が福島町役場となり遺構は全く残っていない。 脇本陣は下町で亀子屋が問屋・庄屋も兼て勤めていたが、本陣同様遺構は全く残っていなく、屋敷跡は道路になってしまっている。 昭和2年の福島大火で焼失棟数800余棟の大被害がでて、福島宿の全てを焼失してしまったが、宿場に続く上之段が焼け残り、本卯建を上げた家や格子を備えた町家が連なり、宿場時代の面影を残していた。宿場から鍵の手となった坂道を上がったところに高札場があり、上之段を進むと枡形が残っている。水場も再現されて、この辺りの上之段は福島で唯一古い町並が残る地域であった。 角川日本地名大辞典 角川書店角川 日本地名大辞典編纂委員会 1990年 長野県の地名 平凡社 下中邦彦 1979年 中山道歴史散歩 有峰書店新社 斎藤利夫 1997年 木曾 歴史と民俗を訪ねて 木曾教育会郷土館部 平成8年 |
上の段の町並 |
上の段の町並 |
上の段の町並 |
上の段の町並 |
上の段の町並 |
本町の崖家造り |
本町の崖家造り |