追分宿は浅間山の南麓、標高1000mと地にあり、関ヶ原の戦後、中山道の宿駅が整備された時以降、中山道と北国街道の分岐点として繁栄してきた。 この地は浅間山から流出した追分泥流の上に立地していて、焼き石や火山灰に覆われ、土壌はやせて、農耕には適さない 天保14年(1843)の中山道宿村大慨帳には町並み東西5町42間・家数103・人数712(内男263・女449)、本陣1、脇本陣3、旅籠屋35・問屋1とある。実に103戸の家数のうち35軒が旅籠屋で、200人の飯盛女を抱えていた。 幕府も追分宿は中山道と北国街道の分岐点と言うことから、旅籠屋に女を置くことを許していた。農耕も殆ど出来ない土地だったのも一因と思われる。元禄13年(1700)の記録では200人の飯盛女が客を接待しており、以来、旅籠屋の殆どが飯盛女を抱えていて、宿場全体が歓楽街化していた。 明治になってもこの状況は変わらなかったが、明治21年信越線の開通により衰退し姿を消して行った。 今、旧宿場を歩くと往時の宿場町の名残は少ししか残っていない。当時の旅籠屋の屋号を揚げた町家、出桁造りの町家が街道筋に点在しているが、旅籠屋が35軒もあり、飯盛女が200人もいたとはとても想像できない林間の旧宿場町であった。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 1990年 長野県の地名 平凡社 下中邦彦 1979年 長野県の歴史散歩 山川出版社 長野県高等学校歴史研究会 1996年 中山道歴史散歩 有峰書店新社 斎藤利夫 1997年 |
追分の町並み |
追分の町並み |
追分の町並み |
追分の町並み |
追分の町並み |
追分の町並み |