上越市中央の町並  
中央5丁目・中央2丁目
地図


中央5丁目の町並

 上越市中央町は一般には直江津として知られている。この一帯は江戸時代には直江津今町と言われ、湊をもつ商業地であった。
慶長12年(1607)堀忠俊は関川の西にあった直江津の春日山城を廃して、関川の東に築城した福島城に移った。家臣・寺社・町人らも同時に移動させたので、直江津今町の経済的な地位は低下した。
慶長15年(1610)堀氏は改易され、代わって徳川家康の六男松平忠輝が福島城主となったが、慶長19年(1614)には福島城を廃して高田城を築いた。そして福島城下の寺社や町人は再び移転させられ、以後高田城下が上越地方の中心都市として幕末に至る。
高田城下に移転し、商業機能の強化策の結果、直江津今町の経済的地位は益々低下し、在郷町としての発展は殆ど見られなかったが、高田城下の外港として港の機能は強化され、港の機能に関する問屋は活動していて、米の積出港として、又、塩・四十物(あいもの)・鉄・日用品の移入口として重要であった。
延宝9年(1681)直江津今町は10町があげられ家数612・人数2,937。延享3年(1746)でも10町で家数830・人数3,604とある。天保4年(1833)には12町と増え家数1,260・人数5,606とある。
高田藩では、信濃馬宿を厳しく禁止したので、直江津今町商人は直江津に入る荷物の大半は信濃向けであるため、この地域で消費する以外の荷物は扱えず、高田城下の諸問屋が扱ったので、在郷町としての大きな発展はなかった。
寛文12年(1672)に開発された西廻り航路が盛んになるにつれて、港しての直江津今町の重要性も増したが、廻船や漁業に従事する零細な住人が多かった。
寛文5年(1665)・寛延4年(1751)・弘化4年(1847)などと地震に襲われ、大きな被害を出しているし、北西からの風が強くしばしば大火に見舞われている。天保15年(1844)の火災で1,288軒が焼け、焼け残ったのが新坂井町34軒のみであったと云う。その後も弘化4年(1847)957軒・慶応元年(1865)314軒・明治4年782軒と大火に見舞われている。
今、古い町並みは古くからの街道筋と思われるところに展開している。この通りが高田城下に無理やり通す以前の北陸道だったと思われるところ。
相次ぐ大火に見舞われて伝統的な様式の家屋も少なく、この地方特有の木製雁木も途切れているが、それらしい町並みが残っている。平入り切り妻造り2階建ての商家らしい建物が続く町並みだった。
町並み指数 30
参考文献  
  角川日本地名大事典  角川書店  角川日本地名大事典編纂委員会  1989年
  新潟県の地名  平凡社   下中邦彦   1986年


中央2丁目の町並み

中央2丁目の町並み

中央2丁目の町並み

中央2丁目の町並み

中央2丁目の町並み

中央5丁目の町並

中央5丁目の町並

中央5丁目の町並
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