上越市高田の地に城を築いたのは家康の六男松平忠輝である。慶長19年(1614)それまでの福島城を廃し、この地に福島城下の家臣団・寺社・町人を引き連れて移ってきた。 城を中心に関川に限られる東を除く三方に家中屋敷(約2,000戸)を置き、それを取り囲む形で町人町(約4,000戸)が造られた。町人町は碁盤状に区切り、城から見て家中屋敷に次いで職人町を次いで商人町をそして寺町と置いた。町家区域には雁木を設けて防雪対策とした(当時は造り込み雁木で、明治維新後雁木は落雁木(アーケード式に似たもの)に変って行った)。 只城主は松平忠輝・酒井家次・松平忠昌・松平光長と代わり、無城主時代を経て稲葉正往・戸田忠真・松平定重と代わり、寛保元年(1741)榊原政永の入封でようやく落ち着いた。 城主が頻繁に代わったので、どの時代に高田城下町が一応の完成を見たかは定かでないが、松平忠昌の時に一応完成したと見られている。城下への主な出入口は三ヶ所で、南と北東に北国街道の伊勢町口と稲田口、北西に北陸街道の陀羅尼口があった。 北国街道は西方山麓を走って北陸街道と繋がっていたが、城下の本町通りを通るように迂回させ、本町通り沿いの町に高田宿の機能を分担させた。そして北国街道と北陸道の結節点を高田城下において、直江津の荒川橋を落としたので、加賀・越中方面からの旅人が関川を渡るのに約6kmも遠回りしなくてはならなくなった。 高田の町が一番繁栄したのは松平光長の時代だと云われているがその資料は残っておらない。寛保2年(1742)には家数4,000を越え人数15,000人を擁している。天保9年(1838)には家数4,307・人数18,063となり、以後大きな変化なく明治初年を向かえている。 さて、今の上越市高田地区だが、江戸期に一番栄えていた本町通りの本町3丁目〜4丁目の建物は建て替えが進み、その上雁木がなくなり近代的なアーケードになっていて風情に欠けるが、その両端から続く町並みや本町通りの東側の大町通り、また本町7丁目から東西に延びる道筋には伝統的な様式で建てられた大型の商家建物も残り、昔からの木製の雁木も健在で、雪国の町並みを演出していた。 角川日本地名大事典 角川書店 角川日本地名大事典編纂委員会 1989年 新潟県の地名 平凡社 下中邦彦 1986年 新潟県の歴史散歩 山川出版社 新潟県歴史散歩編集委員会 1996年 甲信越小さな町小さな旅 山と渓谷社 山と渓谷社大阪支局 2001年 日本の町並みV(別冊太陽) 平凡社 湯原公浩 2004年 |
本町5丁目の町並(これは雁木が進歩したアーケード) |
本町6丁目の町並み |
本町6丁目の町並み |
本町6丁目の町並み |
本町6丁目の町並み |
本町6丁目の町並み |
本町7丁目の町並み |
本町7丁目の町並み |
本町7丁目の町並み |
本町7丁目の町並み |
東本町1丁目の町並み |
東本町1丁目の町並み |