糸魚川は県の最西部、姫川の河口東部に位置する。 糸魚川は北陸道の宿駅であり、信州松本藩に通じる信州街道の起点でもあった。上杉謙信が武田信玄に塩を送ったのもこの道と云われている。 加賀・富山・大聖寺藩主の泊まる本陣や問屋も置かれていて、廻船業も見られ漁業も盛んで、網船などを取り締まる船庄屋も置かれていた。 戦国時代末期には糸魚川城(清崎城)とそれに伴う商・工・武士団の町が形成されていたと思われる。享保2年(1717)松平直之領の糸魚川藩成立後も藩主は江戸詰のため糸魚川には横町に陣屋を置いて役人が交代で派遣されていた。 町は東西に走る北陸道とそれに直交する信州街道に沿っていた。東の押上村から来た北陸道は寺町、大町と続き、二町に分れて北は新屋町、南は七間町(現在の本町)となる。そして信州街道の起点の四つ角になり横町と続く。四つ角から南にはじまった信州街道は新田町、鉄砲町へと続いた。 糸魚川の陣屋は小さく城下町的な色彩は薄く、在郷町的性格や信州への物資輸送の拠点としての性格が強かった。信州街道は北陸道・日本海と信州を結ぶ重要な道であって、この道を通じて塩・塩肴・四十物(あいもの)などが信州へ、信州からは農産物・林産物が移送されたが、その管理業務は糸魚川町の6人の信州問屋が行っていた。 また、虫川と山口に置かれた口留番所を通過する荷物にもこの信州問屋の印が必要であった。 姫川は急流の為水運が利用できず、牛方やボッカ(背負い人夫)が荷物を運んでいた。 寛政3年(1791)の人数3,992。糸魚川は海岸からの強風による大火が多く、安永6年(1777)には525軒を焼く火災があり、その後も度々猛威をふるった。 古い町並みは北陸道と信州街道沿いに展開している。東西の旧北陸道沿いには雁木が備わっているが、南北の信州街道沿いには雁木が備わっていない。二つの道が交差した辺りから東の大町の鉤形辺りまでが昔から、また今も一番賑わっているところだ。 平入り切り妻造りの2階建ての町並みが続く。町はしばしば大火に逢っているので、江戸時代からの建物はないようだが、雁木の備わった商家建物が連なっていた。 角川日本地名大事典 角川書店 角川日本地名大事典編纂委員会 1989年 新潟県の地名 平凡社 下中邦彦 1986年 |
本町の町並み(通りは北陸道で左からの道が信州街道) |
本町の町並み |
本町の町並み |
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本町の町並み |
本町の町並み |
本町の町並み |
横町の町並み |
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