市川三郷町岩間は笛吹川・釜無川・芦川が合流して富士川になって直ぐの富士川左岸、岩間平に立地する。 江戸はじめは幕府領、のち甲府藩領、享保9年(1724)から幕府領(市川代官所など)で明治となる。 戦国期、武田信玄によって甲斐と駿河を結ぶ河内路(駿州往還)の伝馬宿とされ、近世にも引き続き駿州往還の宿として機能していた。慶長年間(1596〜1615)に富士川舟運が開かれると、舟運が運輸の主流となり、岩間にも河岸が設けられた。岩間の船は黒沢河岸に属し、船首を黒く塗って目印とし、俗に「ハナグロ船」とも呼ばれ、年貢米の川下げや海産物の川上げに従事した。 駿州往還も岩間宿の前後で富士川を渡ることとなり「両越渡し」と称せられた。また、その後岩間宿を経由しない新道ができそれが主流となり、岩間宿は衰退するが、駿府御目付役などの通行は従来通り岩間宿経由だったので宿場の機能は維持されていた。 延享3年(1746)の村明細帳によると、家数137・人数649とあり、文化初年(1804〜18)の家数177・人数716・馬16とある。江戸中期には近郷の商品経済の中心地となった。他に農間稼ぎの足袋生産が盛んで、岩間足袋として有名であったが、とくに日清・日露の両戦争で軍の用達となってからは飛躍的に生産が伸びた。しかし昭和初期に福助・土屋などの大資本の前に農家の副業の岩間足袋は姿を消すことになった。 また、明治31年の大水害を境に、水晶加工業が興り、甲州水晶を素材とする印章の技術が抜群であった。 訪ねた当日は日曜日。銀行の駐車場に車を留めさせてもらったが、車を留めた横に巨大なハンコが展示されていて、町中至る所に「ハンコの町六郷町」と表示されている。かって繁栄した岩間にも古い町並みと云えるほど伝統的な様式の家屋が残っていないのは残念だ。 それでも辛うじて、養蚕のための空気抜きのある大型家屋が散見出来たのでまあまあ良しとしよう。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和59 山梨県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1995年 |
岩間の町並 |
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