市川三郷町市川大門の町並み 
市川大門・上野
地図


上野の町並

 市川大門は甲府盆地南端、芦川が笛吹川に合流する地点の左岸沖積地に位置する。
中世には甲府から富士川沿いを駿河へ向かう河内路(駿州往還)の宿駅として栄えると共に、武田氏時代から「市川の肌吉紙」の生産地として有名であった。
江戸はじめは幕府領、のち甲府藩領、享保9年(1724)からは幕府領(市川代官所など)で明治を向かえる。
文化初年(1804〜18)の家数923・人数3,686・馬4とあり、河内路(駿州往還とも称され、駿河と信濃・甲斐を結ぶ脇往還)の宿場が置かれて市川大門宿と言われていた。
明和2年(1765)駿府紺屋町陣屋の出張陣屋が設置され、代官小田切新五郎によって3万石の支配が行われた。
武田氏の時代以来和紙生産が盛んで、幕府から御用紙漉の特権を認められ、甲斐国内の製紙業の中心地であった。肌吉紙と呼ばれる最上質の紙を漉く御用紙衆を肌吉衆(本衆)といい、肌吉衆は諸役免許の特権のほか、苗字帯刀を許され、江戸城本丸・西丸の御納戸紙を上納した。御用紙漉に対して、一般に売買される紙は農間稼ぎの副業として漉かれていて、享和3年(1803)「市川大門村明細帳」によると、御用紙漉14軒、紙漉家数171軒を数えた。
中世には市川大門宿として栄えていたが、富士川水運の影響で江戸期には宿場町としてよりも在郷町、商業の町として発展していた。この地域の商業の中心地であったが、農業主体の村には変りなく、農間には男女とも紙漉きを行い、他に日雇い・山稼ぎ・木綿糸稼ぎ・小商いに従事していた。
安永8年(1779)には家数923・人数3,680、郷蔵1、御用紙漉14・穀商30・江戸紙商5・小紙商40・油屋2・酒造5・紺屋3・鍛冶3・大工6などであった。
旧河内路(駿州往還)に沿って町並みが展開している。伝統的な様式の塗籠造りの商家建物は少なく、数えるほどしか残っていないのは残念であった。
町並み指数 20
参考文献
   角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和59
   山梨県の地名  平凡社  (有)平凡社地方資料センター  1995年        


市川大門の民家

市川大門の民家

市川大門の民家
 
市川大門の民家

上野の民家

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