コヒガンザクラで有名な高遠は城下町・宿場町である。 天正10年(1582)織田信長の侵略によって高遠城は落城し、織田氏滅亡後は保科氏が城主となった。その後一時城代などが支配していたが、江戸幕府ができて再び保科氏が城主となり、鳥居氏・内藤氏と代って明治を向えている。 当初の城下町は城の東側に武家屋敷も城下町もあったのだが、この地はでは狭いので、城下町を城の西側の藤沢川を越えたところに造られ、城の東側は武家屋敷のみに造りかえられた。 この城下町の移動、整備の時期は明白でないが、寛永から正保(1624〜48)にかけての頃と推測されている。 城の西側に大手門を置き、そこからほぼ東西一直線に道を造り、中央部に問屋役所を置いて本町とし、中町・下町と続け鈎の手に折れて鉾持神社前に鉾持町を造った。そこへ伊那と諏訪を結ぶ伊那街道(杖突道・金沢道)沿いに形成されていた街村を移動させて城下町とした。この町割りは今でも当時と余り変らず、市街の中心地となっている。 町方の家数は元禄4年(1691)222軒、元禄10年(1697)248軒とある。 高遠は諏訪から伊那へ通じる伊那街道(杖突道・金沢道)の宿場町でもあり、物資の集散地でもあった。 今、高遠の町を歩くと、城下町が整備された時に造られた、香福寺・蓮華寺前を通って、旧高遠町役場前、更に建福寺前を通る新町通りから、鉾持神社に向かい、鳥居手前を左側に折れる道筋に古い町並が展開する。商家民族資料館として公開されている池上家をはじめとして諸町の中村家など見ごたえ有る町屋があるが、街の中心の通である高砂橋からバスの高遠駅までの道は最近拡張されたので、本町・仲町などの町並は近代的な建物に建て代わり、伝統的な様式の町家は残っておらなかった。 長野県の歴史散歩 山川出版社 長野県高等学校歴史研究会 1996年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 1990 長野県の地名 平凡社 下中邦彦 1979年 |
商家民族資料館 池上家 |
高遠町西高遠諸町の町並 |
高遠町西高遠諸町の中村家 |
高遠町西高遠清水町の町並 |
高遠町西高遠下町の町並 |
高遠町西高遠霜町の町並 |
高遠町西高遠本町の町並 |
高遠町西高遠霜町の町並 |