飯田市座光寺の町並み 
座光寺
地図


座光寺の町並
 飯田市座光寺は飯田市街の北東約3kmに位置する旧伊那街道に沿った集落である。
早くから開けたところで、村の北東にある高岡一号古墳は下伊那地方有数の規模であり、その他多数の古墳群がある。古代東山道の伊那郡衙が座光寺の恒川にあったと考えられ、近年ここから銀銭の和銅開珎、多数の硯、石帯、大きな建物跡や倉庫跡などが発掘されている。中世は市田郷に属し、松岡氏ないし座光寺氏の支配下にあった。そして江戸時代はじめは飯田藩領、慶長18年(1613)幕府領、元和3年(1617)からは再び飯田藩領で明治に至る。
気候温暖の地で、木曽山系山麓にありながら、段丘上を潤している本沢井水系によって、農地には恵まれていた。江戸期の家数・人数・馬数は宝暦12年(1762)220・1,071・123。嘉永6年(1853)には260・1,419・81。明治3年263・1,437・83とある。この馬数が中馬用なのか、農耕用なのかの記載はないが、殆どが中馬用として信州・遠州・三州の物資運搬に使われていたのだろう。
江戸初期から諸役として城役・江戸夫役などがあったが、なかでも文化14年(1817)から課せられた中山道下4宿(野尻・三留野・妻籠・馬籠)の代助郷役に苦しんだ。
下伊那地方は農業が中心で、山間部では林業もさかんであった。明治期に入り海外貿易で生糸が輸出品の中心となるにつれて、桑畑が増加し、大正期になると養蚕が重要産業となり、日本一の養蚕地帯が形成された。
今、街道筋の集落で宿場町でなかったこの座光寺集落には、多くの重厚な本棟造りの豪邸や土蔵が並んでいる。この本棟造りは伊那から諏訪・松本にかけて多く見られるが、この地の本棟造りは長い塀と大きな門に囲われた屋敷地の中に構えたものであり、宿場町や街道筋の商家の建物とは大きく異なっている。
座光寺集落のこのような大きて重厚な家屋の由来は、調べられなかったが、私が推理する範囲では明治〜大正〜昭和初期にかけての養蚕、生糸関連の豪商の家と予想するが、成り立ちは不明としておこう。
町並み指数 30
参考文献
   角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会 1990
   長野県の地名  平凡社  下中邦彦  1979年


座光寺の町並

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