楢川村の集落には奈良井・平沢・贄川の三つあり、奈良井は既に記載しているので、平沢と贄川を一緒にしたが、チョット無理があるようだが。 まず 平沢について。 平沢は奈良井と贄川の中間にある集落で、今は楢川村の村役場などの機関が置かれて、村の中心地になっている。 江戸期には奈良井村の支村であって、資料として平沢だけを取り出せないが、木曾福島の八沢や奈良井と並んで古くからの漆器の産地であった。文化2年(1805)の「木曾路各所図会」には「檜細工塗物を商う家多し」とあり、寛文5年(1665)から享保14年(1729)まで御免荷物の出荷を取り締まるための平沢番所も置かれていた。 江戸期、奈良井には2,000人〜2,600人もの人々が生活していたが、これは宿の他に平沢や町裏も大きく、檜物細工(曲物・指物・塗漆業)が特に発達していたためである。原木として御免白木が木曾全体で6000駄のうち奈良井・平沢で1,520駄(お六櫛の薮原で177駄、漆器の福島で310駄)という多量の割り当てであったことからもわかる。 享保9年(1724)宿内219軒のうち旅籠屋33軒・商人7軒・塗り物師44軒・檜物師99軒で、塗り物師と檜物師で宿内の75%を占めていた。 今、平沢の町は漆器一色の町で、昭和初めには僅かに十数軒にすぎなかった業者も、今では100軒を越え、活気溢れた民芸調の店が並び、観光地のみやげ物屋の雰囲気のような町並を形成し、宿場町とは違った雰囲気の町であった。 贄川については 贄川宿は中山道の宿場で、木曾路の江戸からの玄関口であり、北の固めとして宿入口には贄川番所が設けられていた。贄川宿は当初小野宿と繋がっていた。慶長6年(1601)幕府の代官頭大久保長安の政策により、下諏訪・岡谷から三沢峠を越えて小野へ出て、牛首峠を経て桜沢から贄川に通じる道が開かれ、これを中山道とした。しかし慶長18年に長安が死ぬとこの道は廃止になり、贄川は松本藩領本山宿と結ぶようになった。 宿の生業は農業をしながら旅籠・茶店・商店などを経営したり、職人や出稼ぎなどで生計を立てていた。許された御免白木が210駄にも及ぶことから、檜物類の職人が多かったようだ。 江戸初めは幕府領であったが、元和元年()1615からは尾張藩領となった。 家数・人数は享保12年(1727)136軒・733人、天保9年(1838)183軒・1,016人、万延元年(1860)255軒・1,092人であった。 天保14年(1843)の中山道宿村大概帳によると、町並は4町6間、家数124軒、人数545人、本陣1、脇本陣1、問屋2、旅籠25となっている。 贄川番所は古くから設けられていて、木曾路の南端妻籠番所とともに戦国時代にさかのぼると云われているが、はっきりした史料が残っていない。慶長年間(1596〜1615)福島関所の創設とともにその副関所となったもので、初めは山村氏の私設であったが、寛保元年(1741)に幕府の公式関所となった。女改めと白木改めを中心に取り締まった。 贄川宿の宿場時代の面影は、各所に残っているが、古い町並としては出梁(桁)造りの家が少し残っている程度で、近くの奈良井宿・本山宿に比べて、残存している割合がすくなかった。 角川日本地名大辞典 角川書店角川 日本地名大辞典編纂委員会 1990年 長野県の地名 平凡社 下中邦彦 1979年 中山道歴史散歩 有峰書店新社 斎藤利夫 1997年 |
平沢の町並 |
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贄川の町並 |
贄川の町並 |
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