早川町千須和・保は共に早川町域の中央部で、千須和は早川左岸の河岸段丘から早川氾濫原に、保は南アルプスの笊ヶ岳に源を発する保川と早川の合流点の河岸段丘上に位置する。 両集落ともに江戸初期は幕府領、のち甲府藩領、享保9年(1724)からは幕府領。村高は「慶長古高帳」では千須和36石余・保32石余、寛文11年(1671)検地では千須和182石余・保74石余、延宝5年検地で千須和122石余・保52石余と手直しされ、以後「宝暦村高帳」「天保郷帳」「旧高旧領」では共に千須和122石余・保52石余となっている。 文化初年(1804頃)の家数・人数は、千須和36・150、保63・270とある。 この千須和集落と保集落は共に早川町内の主要道路県道37号線を走っていて、赤いトタン屋根の集落を見つけて立ち寄ったもの。屋根の形態は切妻だったり寄棟や入母屋だったりといろいろですが、古い形式で建てられた家は赤いトタン屋根で覆われているのが特徴だった。 でも、多くの家が無住になっているようで、赤屋根の集落を見つけてワクワクしながら訪ねるも、人が住んでいない家屋を見るのは心痛む探訪だった。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和59 山梨県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1995年 |
千須和の町並 |
千須和の町並 |
千須和の町並 |
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保の町並 |
保の町並 |
保の町並 |
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