早川町新倉の町並 
新倉
地図


新倉の町並
 早川町新倉は山梨県南西部、富士見山の西麓、早川左岸に位置する。
江戸期初めは幕府領、のち甲府藩領、享保9年(1724)からは幕府領で幕末を迎える。村高は「慶長古高帳」16石余、寛文11年(1671)検地では125石余と激増したが、延宝5年(1677)検地では95石余と手直しされた。以後「宝暦村高帳」「天保郷帳」「旧高旧領」ではともに96石余。寛文検地で激増したのは数年の利用で放棄して移っていく、苅立畑(焼畑)までも山畑として計上したためと思われる。文化初年(1804頃)の家数105・人数408、馬8。
早川は山がちで平地は殆ど無いが、林産資源や鉱物資源に恵まれ、農業も焼畑を主として盛んに営まれていた。戦国期から薬袋集落の佐野家・水野家などは、材木や石材の供給をもって当地の領主穴山氏に奉公していたが、穴山氏滅亡後も徳川家康に対し、駿府城・江戸城修築のための材木を多量に供給しているなど、薬袋で勢力をふるった佐野・水野家、保・黒柱を根拠としていた望月氏、経島の斎藤播磨氏、早川の早川藤三郎、草塩の小笠原対馬、榑坪の榑坪河内守など、主な集落に土豪がいたことが判っている。それらの集落は今の早川沿いの道と違い、尾根筋を結ぶ道で早川街道と呼ばれていた。
水資源にも恵まれた早川水系には11ヶ所もの水力発電所がある。早川町内の主要道の県道37号線は大正10年代以降にこれらの発電所の建設に伴って開削されたものである。それまでは尾根筋の早川街道が主な道だった。今から見ると尾根上に取り残されたような集落も、かっては主要道に接していたのである。
さて、新倉集落であるが、東西を標高1100mを越える山塊に挟まれた標高500m程の峡隘な谷間に立地する。集落は最初は山裾部分に集中していたが、大正期に始められた発電所建設工事によって早川に沿った地点に集落が新しく造られ発達し、次第に街村型集落を形成していった。
今、集落の形態は上下の2段になっている。上段の傾斜地に密集して建つのが古くからの集落で、下の平地に建つ家屋が大正期以後に形成された町である。急傾斜地に軒を接して重なるように建つ古い集落と、平地にゆったりと建つ集落。成り立ちの違いが如実に見られる集落であった。
町並み指数 40
参考文献
   角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和59
   山梨県の地名  平凡社  (有)平凡社地方資料センター  1995年        


新倉の町並

新倉の町並

新倉の町並

新倉集落風景
風景
新倉集落風景

新倉の町並

新倉の町並

新倉の町並

新倉の町並

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