鰍沢は山梨県の西部、甲府盆地の最南端に位置し、富士川が甲府盆地から流出する地域である。 江戸はじめは幕府領、のち甲府藩領、享保9年(1724)からは幕府領(市川代官所など)で明治を向かえる。文化初年(1804〜18)の家数639・人数2,897・馬9。天保9年(1838)の家数731・人数3,278・馬31とある 幕府の命令で、角倉了以が富士川を開削して舟運が始まったのは慶長19年(1614)で、河岸の中心を鰍沢において、他に青柳と黒沢に河岸をつくった。 年貢米やその他の国産品を川下げし、江戸や大坂などから塩・茶・反物・日用雑貨などを仕入れて川上げして、これら三つの河岸から荷駄にして国中一帯の需要に応じた。文字通り物資流通の要衝であり、身延参りなどの旅行者の宿場町としても栄え、多くの茶屋・旅籠屋などもでき繁華街に発展した。 年貢米の川下りは地船(河岸所有の船)のみによって行われた。鰍沢所有の船数は宝永2年(1705)108、天明4年(1784)113、文化11年(1814)108、天保9年(1838)85、明治12年268とある。 延享3年(1746)の商人は塩売32・小売6・油売3・酒小売3・煙草1・鍛冶2・紺屋5などであった。 駿州往還の鰍沢宿は伝馬5疋・人足6人を日々用意した。 廻米御用は明治維新で廃止になり、三河岸の特権は無くなったが、経済の大動脈として、明治36年の中央線開通まで重要な役割を果たし、昭和3年の富士身延鉄道全線開通で全ての活動は停滞した。 鰍沢本町には伝統的な漆喰塗込めの商家建築が幾つか残っていますが、古い町並みとは言えない状態です。国道52号線に沿って町並みは展開するが、伝統的な家屋は東側に点在するのは多分西側は道路拡張によって取り壊されたのだろう。電柱やテレビのアンテナなどが取り払われた道筋は大変すっきりしている。昭和の町並みと云う様相で看板建築などが連なっている。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和59 山梨県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1995年 |
鰍沢の町並 |
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