早川町赤沢は山梨県西部、日蓮宗総本山で知られる、身延山久遠寺の裏側にあたるところに位置している。早川町は西に2000〜3000m級の南アルプスが連なり、東や南は1500〜2000m級の山々に囲まれた地域で、赤沢の辺りの標高は400m位で、春木川を挟んで七面山(標高1983m)を望み、東の身延山(標高1148m)の山麓傾斜の緩い台地上にある。 慶長6年(1601)に徳川幕府の直轄地となり、中期には甲府藩領となり、後期には再び幕府領であった。 赤沢村の村役は慶安3年(1650)名主 九右衛門(大坂屋)・長百姓 松左衛門(江戸屋)がはじめて文献に登場し、以後明治に至るまでこの二家が交互に名主と長百姓を勤めていた。 江戸時代の中頃になると、信仰を理由にした旅行が急に盛んになる。信仰にかこつけての物見遊山が始まる。富士講は富士登山、身延講は久遠寺参りと身延山・七面山登山、伊勢講は皇大神宮参詣など、白装束に桧笠、手っ甲、脚絆、草鞋履き姿の大勢が旅をした。 山岳信仰の霊場であった七面山は、寛永17年(1640)徳川家康の側室であった養珠院(お万の方)の参詣以来、女人禁制が解かれ、江戸を中心に組織された身延講の発達とともに一段と七面山参詣が活気を呈した。七面山への参詣が身延山参詣とセットで行われ、身延山久遠寺に詣でた人々は奥の院を経て、赤沢宿を通り春木川を渡ってから再度表参道を登って七面山山頂に達した。 赤沢は山岳霊場身延山(1152m)から七面山(1982m)へ登る唯一の道筋の、唯一の宿場町として開けた。赤沢は身延山から下ってきて、春木川に下る直前の山腹にしがみついた宿場である。 明治初期の赤沢宿には九軒の旅館があった。集落は上村と下村に分かれ、上村には日蓮宗の妙福寺をはじめ恵比須屋、玉屋、両国屋、大黒屋、萬屋、喜久屋、信濃屋などで、身延往還という3m足らずの石畳の急坂道に沿って並び、下村は比較的勾配が緩やかで、そこに清水屋、そして赤沢の草分けといわれる大阪屋、江戸屋などが今も残る。 赤沢の旅篭の特徴は「長い土間」と多くの「講中札」だ。「長い土間」は一階座敷の回りにL字型の縁側を付け、その外側に土間を巡らして、一斉に草鞋を脱いだり履いたり出きるようになっている。二階の表側には縁側が設けられ、縁側を廊下として利用し、幾つも並んだ部屋を独立して使えるように工夫されている。 また、軒下にかかる「講中札」は講の指定旅館の標示で、今も大阪屋の96枚を筆頭に、恵比須屋82枚、大黒屋35枚となかなかの壮観だ。赤沢の旅篭の客室数は38室で、収容人員は400人程度であった。しかし、4月、10月のピーク時には客室だけでなく、穀蔵まで宿泊客があふれ、宿泊客が一日に3回転する状態であったという。最盛期の一日当たりの宿泊客は千人、食事をとる客は五千人と推定されるが、講中組織が解体し、自動車道が早川沿い整備されて、参詣客が赤沢を通ることなく七面山登山口へ直行できるようになり、赤沢宿は衰退の一途を辿った。 別画像(2006.10.28) 赤沢重要伝統的建造物群保存地区調査報告書 早川町教育委員会 歴史の町並みを歩く 保育社 高士宗明 平成6年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 |
江戸屋 |
赤沢の景観 |
身延往還と町並(右側は身延往還) |
身延往還と町並み |
えびす屋の講中札 |
大阪屋の講中札 |