上松町の町並 
本町通り一丁目(旧上町)・寝覚
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本町通り一丁目(旧上町)の町並
 上松宿は天文2年(1533)に木曾義在が木曾谷の道路を整備して宿駅を定め、そのとき上松も宿駅の一つに決まったようだ。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦い後、五街道の制定により中山道の宿駅として「上松宿」が正式に決まった。慶長13年(1608)に木曾代官山村良勝は領内の村々の年貢・課役等を定める旨の条目を上松村にも出している。
木曾の木材は年々切られたため、尽山が増えてきた。そこで尾張藩は寛文5年(1665)林政改革を断行し、それまで福島の山村代官に一任していた林政を藩の直轄とし、上松に材木役所(御陣屋)を設け、伐採・運材の支配いを直接行うようにした。
初代材木奉行佐藤半大夫は留山(保護林)を制定し、村民の立ち入れる明山と区別した。しかし宝永5年(1708)に停止木制度と留木制度を制定し、明山にも自由に入ることが出来なくなり、厳重な山林取締りが行われた。
盗伐には厳罰がなされ、檜一本首一つ、枝一本腕一つと云われた。農民山林収入がなくなり、養蚕・座繰製糸・木曾馬飼育へと収入の道を転換していった。
上松宿は木曾11宿の中央部に位置し、天保14年(1843)の中山道宿村大概帳によると、宿長さは五町31間、家数362軒、人数2,482人、本陣1・脇本陣1・旅籠35軒・問屋2となっている。
塚本氏が本陣・問屋・庄屋を兼ね、原氏が脇本陣と問屋を兼ねていた。農業の外緒商人往還の稼ぎ・旅籠・茶屋ありと記されている。
明治43年に中央本線上松駅ができ、同44年には全線が開通した。この時期に発電所建設に伴い木曽川やその支流を利用しての材木搬出が不可能になり、木材運搬は鉄道に頼ることとなり、木曽川の支流に沿って森林鉄道が敷設され、木曾木材生産が急増、上松駅付近が木材の一大集散地となった。
この宿は何回も火災に遭い焼失した。特に昭和25年の大火には、本町・仲町・下町・栄町のすべてを焼失したが、上町のみ毎回焼失を免れて、江戸・明治期の宿場町の面影を留めている。
駅前などの町中央部には全くと云うほど、古い家は残っていない。本町にあった本陣や脇本陣も焼失し、遺構は何一つ残っていないが、町はずれの上町には切り妻造り平入りでせがい造りの民家が連なって残っている。
上松宿でないが、上松町寝覚の旧中山道沿いに、立場茶屋の多瀬屋と歌麿の絵に描かれた越前屋そば屋が残っていた。特にせがい造りの多瀬屋は重厚な旅籠建築で見事な建物であった。
町並指数 60
参考文献 
  角川日本地名大辞典  角川書店角川  日本地名大辞典編纂委員会  1990年
  長野県の地名  平凡社  下中邦彦  1979年
  中山道歴史散歩  有峰書店新社  斎藤利夫  1995年
  木曾 歴史と民謡を訪ねて  木曾教育会郷土館部編著  平成8年   

本町通り一丁目(旧上町)の町並

本町通り一丁目(旧上町)の町並

本町通り一丁目(旧上町)の町並

本町通り一丁目(旧上町)の町並

本町通り一丁目(旧上町)の町並

本町通り一丁目(旧上町)の町並

寝覚の町並

寝覚の町並

寝覚の町並
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