日本海側と太平洋側の中間点、阿賀町津川には思いもよらぬ雁木の町並みがあった。 阿賀野川の支流、常浪川の河岸段丘上に位置しする津川は江戸期を通じて会津藩領。会津藩の支城津川城が置かれ、その城下町であったが寛永4年(1627)廃城となった。以後城下町の機能は無くなったが、新潟湊から津川までの阿賀野川水運と津川〜会津若松間の会津街道、津川〜新発田間の新発田街道の水陸の中継地となり、宿場町・川湊町として発展し、会津藩の西の要衝であった。阿賀野水運は「津川船道」と称し津川に会津藩の船番所が置かれた。この水運を津川から会津若松まで延長すべく、何回も工事が行われたが、急流の為成功しなかった。 慶長15年(1610)の大火後、時の城主岡半兵衛の復興計画により本町173軒全て板葺きとなり、平板造りと云う庇をつけた。これが雪国の雁木だが、会津地方では津川以外には付けられていない。商売もそこでのみ許され、端町は板屋根・商売とも許されなかった。 寛文3年(1663)には六斎市が開かれ会津藩の西の玄関口として活況を呈し、米と新潟湊から入ってくる塩・衣類との交換で賑わった。 この様に湊町・宿場町であるとともに市場町・役所町・在郷商人町の性格を併せ持って、江戸中期まで飛躍的に発展し、寛文年間(1661〜73)には354軒と増えている。 しかしその後、津川船道の衰退や相次ぐ大火などによって文化年間(1804〜18)には294軒(新編会津風土記)と減少している。 慶長年間からはじまった津川の雁木、この地方では「トンボ」と呼ばれている。雪の積もっている時や雪が降っている時はこの雁木のお陰で移動が楽にできる。今でも雁木は私有地に私有物として建っているのですが、公共の歩道の様に利用されている。相互扶助の精神が浸透しているのでしょう。 訪ねたのは雨が降る夕方、移動するのには大変都合が良かった。 角川日本地名大事典 角川書店 角川日本地名大事典編纂委員会 1989年 新潟県の地名 平凡社 下中邦彦 1986年 日本の町並みV(別冊太陽) 平凡社 湯原公浩 2004年 |
津川の町並 |
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