手造り醤油の故郷湯浅は、和歌山県の北西部、有田郡の西端で湯浅湾に面している。湯浅の中世は湯浅党が、末期になると、日高(現御坊市)の亀山城を拠点とした湯川氏が強力になり、有田・日高地方を領したが、天正13年(1585)秀吉の紀州攻めにより亀山城は落城した。 紀州和歌山には秀吉の弟秀長を置き、和歌山城を築城したが、規模などは不明である。そして慶長5年(1600)関ヶ原の戦い後、浅野幸長が紀州領主として入り、本格的に和歌山城を築城し、湯浅は紀州藩領になり、そのまま明治維新を迎えた。 天保10年(1839)の「続風土期」によれば家数1255軒・人数5546人で、町は道町・島内・鍛冶町・中町・浜町・新屋敷・御蔵町・寺町など12町ほどであった。江戸時代にはこの地方の商工業の中心地として繁栄し、藩の保護を受けた醤油の醸造家が多く、広大な邸宅と倉庫が棟を並べていた。文化12年(1815)には角馬(角屋右馬太郎)・油伝(油屋伝七)など33軒の醤油屋があった 湯浅は醤油の発祥地として有名だが、その起源は建長4年(1252)に由良の興国寺開基の僧法燈国師が中国(宋)で禅を学ぶかたわら、味噌の製法も習って持ち帰った径山寺味噌にあると言われている。帰国後も布教のかたわら製法を伝授したのが一般にも伝わった。味噌樽の底に溜まった液が食物を煮るのに適しているのを発見し、調味料として改良の末、湯浅醤油になったのである。これが天正年間(1573〜92)に大坂に積み出され、湯浅醤油として有名になった。 江戸時代に入って醸造販売が大きく発展したのは、和歌山藩の特別な保護があった。醤油の運搬船は密柑船同様の御用船扱いとし、代金諸運賃の不払者に対しては租税不納者と同様の取り扱いで徴収するなど、藩の保護のもとに販路の拡張を図った。 文化年間(1804〜18)には湯浅地方の同業者は90余名にのぼり、湯浅港に近い北町・蔵町を中心に醤油業者が軒を並べていた。しかし明治以降は徐々に斜陽化し、現在伝統的な製法で醸造しているのは、山田川河口附近の「角長」一軒のみになってしまった。 角長は天保12年創業で、湯浅の醤油の中では新顔であるが、他の業者が醸造を止めてしまったので、ただ一軒だけが残った醸造業者である。 湯浅は醤油だけでなく、そのルーツとなった経山寺味噌も盛んに作られている。現在では醤油と同程度かそれ以上に経山寺味噌の看板を町中で見る。 町並は他の町に比べて、本瓦葺の家がやたらに多い。普通はお寺か、よほど由緒ある家ぐらいしか本瓦葺はないが、湯浅では瓦葺の半数位は本瓦葺であり、その殆どが切り妻造りの平入りであった。中町に大きな主屋、を持つかっての醤油屋の家が点在し、内一軒は切り妻造り、平入り、本瓦葺、中二階、漆喰塗り込めの虫籠窓、格子で他の家もだいたい同様である。 関西 小さな町・小さな旅 山と渓谷社 山と渓谷社大阪支局 1997年 和歌山県の歴史散歩 山川出版社 和歌山県高等学校社会科研究協会 1995 御坊市史 御坊市 御坊市史編纂委員会 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和60年 |
北町の金山寺味噌屋 |
北町の町並み |
北町の角長(旧来の手作り醤油) |
北町の麹屋 |
北町の角長(旧来の手作り醤油) |
中町の玉井醤(経山寺味噌) |