吉野町は奈良県の中央部、紀の川(奈良県では吉野川と呼ばれている)中流域の町で、吉野山は吉野川に流れ込む支流の左曾川と丹治川に挟まれた尾根上で発達した街村である。 江戸はじめは吉野蔵王領、元和年間(1615〜24)幕府領、慶安元年(1648)からは吉野蔵王領。 村高は「慶長郷帳」853石余、「寛文郷帳」840石余、「元禄郷帳」「天保郷帳」ともに853石余。 修験道の総本山金峰山寺蔵王堂の所在地で、堂塔伽藍が建ち並び、吉野山はその門前町として発達した。特殊な門前町としての機構をもっていて、ひとかたまりの山岳集落であるために吉野山と呼ばれていたが、大きく3ッに区切り、六ヶ院・中町・野際とあった。 六ヶ院は現在上千本・奥千本と云われる区域で、勝手神社より上手から最高所に近い金峰神社までで、宮坂町・東院町・塔庭・小山町・千手院町・辰ノ尾町・子守町・岩倉町・愛染。 中町は現在中千本と云われる地域で、勝手神社より蔵王堂までの間で、松本屋敷・稲荷町・山下町・新堀谷・市場町・南市場町・南院町・金剛院町・中千本町。 野際は現在下千本と云われる区域で蔵王堂より北西下手の一之坂まで、上町・下町・味屋谷・中井谷町・山ノ井町・花山町。 中町の市場町から山下町にかけての辺りが一番の吉野山の繁華なところで、今でも昔のまま繁華な所となっている。 天和3年(1683)の記録によると、百姓・町人の家数は江戸後期で約290軒で、その45%が諸国からの参詣人相手の商売に従事、25%が百姓、20%が寺院の下働き、10%が山稼ぎであった。 吉野山の桜は豊臣秀吉の花見によってその名声を天下に高めた。しかし庶民の吉野来遊は江戸中期、寛文年間(1661〜73)頃からと云われる。それ以来今日に至るまで吉野の千本桜として関西は勿論全国的にも有名な桜の名所である。 訪ねたのは桜の開花時期で大変な混雑が連日続いているころ、早朝に家を出て、吉野山に着いたのは午前8時過ぎ。お店が全て開いていない時で混雑を避けたが、下千本から上千本まで歩いて引き返した時には、歩くのも苦労するほどの人混みであった。 伝統的な様式で建てられた建物も多く残り、なかなか見事な古い町並を形成していた。 奈良県の地名 平凡社 下中邦彦 年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 |
中千本の町並 |
中千本の蔵王堂(正面) |
中千本の町並 |
中千本の町並 |
中千本の町並 |
中千本の町並 |
中千本の町並 |
中千本の町並 |
中千本の町並 |
上千本の町並 |