吉野町上市の町並み
上市・立野
地図


上市の町並

 吉野川の中流域、町の中心地である上市は、室町時代から商業地として栄えたところである。
上市は古くは「千股里(ちまたのさと)」といわれ、竜門荘千股の住民が、吉野川の中州で材木取引をするために集落を形成したのが始まりと云われている。
集落は最初、吉野川の中州(中島)にあって、ここで六斎市が立ち、ここを中心に物資の流通が行われ、下流の秋野川の市と並んで繁栄し、それぞれ上市・下市と呼ばれるようになった。
明応5年(1496)に飯貝に浄土真宗本善寺が創建されると、寺内町の様相を呈してきた。本善寺は寺伝によると、文明8年(1476)蓮如が飯貝の地に一宇を建立したのに始まったと伝えられている。
蓮如の時代に真宗の教圏は本格的なものになり、応仁2年(1468)下市に願行寺を建立、吉野門徒と奈良門徒の要望に応えて本善寺を創立したもの。そして本善寺を上市(飯貝)御坊、願行寺を下市御坊と云われた。
中世以来、島の市として発展してきた上市も、洪水などにより中州が次第に侵食され、人家は北岸の尾仁山方面に移り、新しい上市を形成した。この中州集落を決定的に破滅したのは、延宝2年(1674)の大洪水であるという。文化2年(1805)では、家数441・人数1742人。
上市は伊勢街道筋にあり、山上詣・高野詣・伊勢詣の拠点であり、吉野川筋の奥の山里を商圏とした市場町・街道町であった。宝歴8年(1758)の名寄帳によると、商人の殆どが米屋・魚屋・畳屋・筏屋など近隣を対象としたものであった。
江戸期を通じて上市は幕府直轄領であったが、金峰山寺に寄進されていたので、実際は金峰山寺領であった。隣の立野は幕府領から、元和3年(1617)から中坊氏知行となっていた。
明治時代に入っても、役場・税務署・警察署などは上市に置かれるなど、吉野郡の行政・経済・文化の中心地として賑わった。明治44年には商業186・工業66で全戸数の約半数を占めていた。
しかし、昭和に入ると町の発展と共に町の中心地は平坦地を求めて西に移動した。昭和4年には吉野〜大阪間に直通電車が走ることになった。大和上市駅は市街地から西にずれた、尾仁山の南西麓に開設され、そして急傾斜地の中心地から、税務署や郵便局が、中学校や小学校が西に西にと移転していった。
町並みを歩くと、旧街道は吉野川の堤を走る国道370号線と山裾の急傾斜地にしがみつくように建つ家々の間をぬって伸びている。簡単に云えば、旧街道の両側に家が一軒づつあって片側はそれで山になる。もう一方は国道370号線でその先は吉野川である。
上市はこの様に急傾斜地の小空間に発達した町で今でも古い町家も残っている。中でも、日本一の山林地主と目される北村家(北村林業株)はこの上市に本宅を構えている。江戸中期には盛んに吉野の奥へ奥へと進出していった。北村家は大きな間口であるが、傾斜地ゆえ奥行きは小さい。主屋は切り妻造りの中2階建て、本瓦葺きで、虫籠窓も備わり、荒格子、千本格子で軒先が深く右側に土蔵を有し、煙だしも付けられていた。
上市に続く立野は上市に続く宿場町・街道町として性格が強かったようで、享和2年(1802)の竜門郷十五ヶ村明細帳によると家数90・人数520となっている。
町並み指数 50
参考文献
  遊ぼうマガジンNO、19  関西小さな町小さな旅 PARTU  山と渓谷社  1997
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  1990年
  奈良県の歴史散歩下  山川出版社/奈良県歴史学会  1993年
  吉野町史  吉野町  吉野町史編纂委員会


上市の北村林業附近の町並み

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上市の北村酒造辺りの町並み

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