大和高田市の町並み
北本町・中本町・南本町
地図


寺内裏町の町並

 大和高田市の古い町並は奈良盆地の南部、今の高田川の東で、JR和歌山線で挟まれた地に形成されている。
古代からの官道 横大路(伊勢街道)と山城から続き、奈良市歌姫町から大和郡山・五條を結ぶ下街道が交差する交通の要衝であった。
応永年間(1394〜1428)には大和にも一向宗の進出が見られる様になる。慶長5年(1600)に、今の高田川の西の有井にあった正行寺を、今の高田川の東、旧高田川(県道)の西の現在地に移し、専立寺と改称し高田御坊といわれた。浄土真宗の大和御坊の一つである。
高田村の中心ははじめ、旧高田川の東の本郷であったが、高田御坊専立寺ができると、旧高田川の西側と専立寺の間に寺内町が形成された。この寺内町は商業的性格の強いものであって、次第に本郷をしのぐようになり、元文4年(1739)では家数516、人数1800で明和6年(1769)の村様子大概帳では家数674、人数2463となっている。
江戸時代の高田村ははじめ新庄(布施)藩領であったが、天和2年(1682)からは直轄領となり明治に至った。
高田村を含む近郊では江戸期の中頃から換金作物の栽培が多くなり、綿花・葉煙草・菜種などが栽培された。そしてこれらの作物に伴って商工業も発展し、綿問屋・綿取引商人が多くなり、綿商人の屋敷が寺内町に連なった。
その中心となる綿問屋として、高田村には松村屋・村島屋などがいた。
町並は専立寺の東側、旧高田川の間で南北に延びる二筋の道に沿って展開する。北から北本町・中本町・南本町と続く。西側の通りは専立寺も山門の前の通りで、寺内表町と云われた。その東側の通りが寺内裏町と云われた、市町筋である。
そのもう一つ東側の道路が、県道大和高田斑鳩線だが、この道路くねくねと曲がりくねっている。これは昭和26年に昔の高田川を埋め立てて道路にしたもので、蛇行したままの河川の跡が道路のカーブとして残っている。
伝統的な商家の建物は、寺内表町には少ないが、寺内裏町の市町筋には杉本家、村島家などの大型商家の家屋が残っている。町並みを構成する伝統的な商家の建物は、平入りの切妻造り、中二階建てで白漆喰の塗り込めの虫籠窓、昔は全部本瓦葺きであったろうが今は殆どが桟瓦葺きになっていた。出格子、格子で煙だしを付けた商家も多かった。
それと、駒繋ぎの輪が今でも残っている家が3軒(杉本家・村島家・村島家)もあり、豪商であった名残である。
町並指数 50
参考文献
  奈良県の歴史散歩下  山川出版社  奈良県歴史学会  1993年
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  1990年
  http://www.aasa.ac.jp/people/onomi/3706.html


寺内裏町の町並

寺内裏町の町並

寺内裏町の町並

寺内表町の町並

寺内裏町の町並と大神宮

寺内裏町の町並
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