中世末期の混乱期を経て、織田信長と組んだ筒井順慶が大和を統一し、天正8年(1580)郡山に築城にかかった。ところが天正10年(1582)の本能寺の変から山崎の合戦までの大騒動、天正12年(1584)順慶の死、後を継いだ筒井定次が突然、豊臣秀吉から伊賀上野へ国替えを命ぜられ、天正13年(1585)豊臣秀吉の弟、羽柴秀長が郡山城に入り、大和、和泉、紀伊三ケ国で100万石を領した。 郡山入城後の秀長は100万石にふさわしい規模の城郭と城下町の建設に取りかかった。紀州根来寺の大門を城門としたり、奈良周辺の神社、仏閣から仏石、墓石等、あるいは生駒、春日奥山から大石を切り出し運んで城郭の大増築と城下町の建設をした。城郭の主要部は秀長の時代に出来あがっていたが、秀保を経て増田長盛の時代に外濠が造られて完成した。 城下町も筒井順慶のときに始まり、本町・塩町・魚町などはこのときに成立したようだ。秀長が入部すると、城下町経営も本格的に行われ、同年の天正13年には奈良での味噌・醤油・木材の商売を禁じ、商売は郡山のみに限るという極端な保護政策をとったため、郡山城下は急速に繁栄した。 天正16年(1588)の郡山惣町分日記には、本町・魚塩町・堺町・柳町・今井町・綿町・藺町・奈良町・雑穀町・茶町・材木町・紺屋町・豆腐町・鍛治屋町の14町の名がある。鍛冶屋町は本町の枝町であるから、これを除く13町で、有名は箱木13町を構成して、町の自治制度をとった。 天正19年(1591)秀長没し、養子の秀保が郡山城主となる。そして文禄4年(1595)増田長盛が郡山城主となるが、関ヶ原の戦いで増田長盛が追放され、大久保長安が大和国の代官となる。 その後、元和元年(1615)大坂夏の陣後、水野勝成が郡山城主となる。そして松平、本多など数代の城主交替の後、享保9年(1724)五代将軍徳川綱吉の側用人を務めた、柳沢吉保の子、吉里が甲府城主より転じ15万石を以って入部し、柳沢氏の支配のまま明治を向えた。 寛永年間(1624〜44)頃には町数も増加し、寛文年間〜延宝年間(1661〜81)頃までにほぼ内町27町・外町13町からなる郡山町の構成が整った。享保9年(1724)の和州御領郷鑑によれば、家数3656軒・人数1万3258人である。 産業面では早くより綿が栽培され、郡山繰綿として有名であった。明和4年(1767)には城下で綿屋仲間250人を数える盛況であった。 本町には天明ごろからの造り酒屋があり、清酒「菊竹」の醸造元である。柳一丁目の商家は寛政年間(1789〜1800)以前の建物で、少し北には創業400余年の和菓子屋があり、赤い毛氈のかかった床几で客を迎えるようになっていた。 紺屋町は名前の示す通り染屋(紺屋)が営業していたところで、道筋の中央に水路が通り、城の堀とつながっている。現存するこの水路で当時13軒の紺屋が染めあげた布や糸を晒していた。 洞泉寺町に出ると木造3階建て、表窓に細い格子をつけた家が連なって出現した。今の木造の3階建てよりも随分背が高いようだ。洞泉寺前に二軒連なって家の表面の全面に細い格子がはまった、民家があり大変見事な景観であった。 柳四丁目には、幕末の建物で揚げ見世と下げ戸がついた商家があり、また元呉服商家は一部三階建てになっていた。その南に元旅館があり、平入り、二階建て、煙り出し、平瓦葺、入り母屋造りである。 稗田環濠集落は全国的にも有名であり、大規模でほぼ完全な形で残っている環濠。「古事記」の口述者、稗田阿礼の出身地と伝えられ、村の鎮守である売太神社にも祭神として祀られている。 集落の廻り東西250m、南北200mにわたって、幅4〜14m・深さ2〜3mにもおよぶ濠を巡らした環濠をもっている典型的な環濠集落である。戦国時代には城砦的な役割をはたしたと思われ、争乱のなかで農民たちが自衛のために造った施設であり、また農業水利の便をはかるためのものでもあった。 稗田集落の存在を示す最も古い資料は文安元年(1444)の経覚私要抄で古市仙が稗田の陣を敷いたという記事だ。 集落内の各家は皆豪壮な建物であって、代官屋敷きに来たようだった。 奈良県の歴史散歩上 山川出版社 奈良県歴史学会 1996年 関西 小さな町・小さな旅/山と渓谷社 山と渓谷社大阪支局 1997年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 1990 |
柳一丁目の和菓子屋 |
紺屋町の町並み |
柳四丁目の町並み |
本町の造り酒屋 |
柳一丁目の筆屋 |
洞泉町の町並み |
堺町の町並 |
高田口町の町並 |
町並の写真 2 |
稗田環濠集落の環濠風景 大和棟の建物が確認できる。 |