大和郡山市の南部にある環濠集落の形態をよく残した稗田集落と番条集落を訪ねました。 両集落とも佐保川の東岸にあり、共に中世の環濠をよく残した集落で、かっての環濠の形を殆ど完全に残している。 最初に番条集落から見よう。鎌倉期から見える荘園名で、中世の番条氏居館跡がある。番条氏は大乗院方の衆徒で、越智氏と共に畠山義就を支持したので、長録3年(1459)に筒井順永が越智家栄を破ると、番条長懐は館を自焼して没落し、番条郷民多数が堀水に落ちて死んだという。そして応仁の乱後は番条氏は筒井氏に属し、元亀2年(1571)に番条城にいた松永久秀を筒井順慶の反撃で追い出して、番条氏は番条城に戻れた。 江戸時代は郡山藩領で享保9年(1724)には家数94・人数441。明治15年頃は家数95・人数484とあり、農家が82戸と大多数を占めていた。 次いで稗田集落も鎌倉期から見える荘園名。当地が水利に乏しく稗を食べているのを聖徳太子が哀れみ、東方に広大寺池を築き水利の便を図ったと云う。環濠はその時に造られたと思われる。戦国期には興福寺衆徒の古市胤仙が文安元年(1444)に、筒井氏から稗田を奪い、城としいたのは売太神社の場所と推定される。その後の文明14年(1482)には筒井方に攻められて焼かれている。江戸時代は興福寺領で明治15年頃の家数76・人数358とあり、農家が75とあるから殆ど全部が農家であった。 ここで環濠集落について少し、奈良盆地に多く有る環濠集落とは周囲に濠を巡らせた集落のことで、自衛のために濠と土塁を設けていたもの。しかし江戸時代以降は環濠は主に灌漑用の水路・貯水池として使われていた。しかし近年になり河川改修で水量が減り水質が悪くなり、多くが埋められてしまった。そんな中で、番条環濠も稗田環濠も環濠がよく残り、かっての姿を残している。 環濠集落内の建物は、近隣の農村集落の建物と余り変わらなく、豪農の屋敷と思われる建物が多いが、その中でも特に番条集落の町並みは本瓦葺きも混じり、板囲い漆喰塗の家屋の並ぶ光景は見事なものである。そして番条には造り酒屋さんまで健在であったのには驚いた。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 1990年 奈良県の歴史散歩下 山川出版社 奈良県歴史学会 1993年 |
番条集落の光景 |
番条集落の光景 |
番条集落の光景 |
番条集落の光景 |
番条集落の光景 |
番条集落の光景 |
番条集落の光景 |
番条集落の光景 |
稗田集落の光景 |
稗田集落の光景 |