由良町網代の町並み
網代
地図


網代の町並
 由良町里の中でも旧横浜浦と呼ばれる所に、古い町並が有ると見当をつけて訪ねたのだが、
横浜には殆ど残っておらず、隣の網代に古い町並が少し残っていた。
網代の慶長年間(1596〜1615)は阿戸村の一部で、その後、分村して枝郷となり、延宝6年(1678)の大差出帳(日高鑑)では阿戸村弐ヶ村とあり、網代は家数92・人数386とある。幕末の「紀伊続風土記」では家数99・人数411とあり、漁業中心の村であった。「南紀徳川史」によると幕末には漁船40艘も持ち家数は100とある。
網代は早くから網漁業が発達していたが、由良湾奥のため漁場がせまく、湾内の諸浦と争いを起していた。
古い町並としては無い様に思った、横浜浦は延宝6年(1678)の大差出帳(日高鑑)では里村弐ヶ村とあり、横浜浦は家数113・人数452とあり本村里村の家数・人数45・225より多い。横浜浦は浦ではあるが漁村ではなく、荷持船の基地であった。舟17艘は全て荷物舟で、漁船は無く、荷物舟はこの地方では最も多く横浜浦は港町として機能していた。本村里村より家数・人数が多いのはそのためと思われる。
網代は明治30年代から、何回かに亘って埋め立てが行われ、現在の密集した住宅地になったようだ。網代では住宅が密集して建っている。古い伝統的な様式の家も多く残っているが、それらの家は空家になっているのが多い。平屋建て、本瓦葺きの町並は東西に延びる4本の直線道路によって、町割りされていて、埋め立てによってできた町ということが容易に理解できる町並である。
一般に漁村は細い路地のように道が細く曲がりくねっていて、その路地に沿って家が建っているものだが、この網代の道は一直線で車が通れるだけの広さがあり、漁村らしからぬ様相ですが、家が密集している所が漁村と思われる。
町並み指数  30
参考文献
   和歌山県の地名  平凡社  下中邦彦  1983年
   角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和50


網代の町並

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